格付け戦
砂の匂いがした。
観客の怒号が、腹の底まで響いてくる。
俺―リドは、闘技場の中央に立っていた。
三日間、碌に眠らなかった。眠っている暇などなかったからだ。この体の可動域、筋肉のつき方、癖。前世の技術がどこまで通用するのか。頭の中で何度も何度も、組み立て直した。
「対戦相手、銅級剣闘士ダロス!」
司会の声に合わせて、向かいの入場口から大男が現れる。丸太のような腕、傷だらけの胸板。顕在値を持つ者特有の、密度の高い筋肉。
観客席がどっと沸いた。
「無属が銅級と当たるなんて、今日は見世物か!」
「三分ももたねぇよ、あの図体差じゃ」
野次が飛ぶ。俺はそれを、意識の外に押しやった。
(重要なのは、感情じゃない。データだ)
三日間、看守や他の剣闘士から聞き出せる限りの情報を集めた。ダロスの戦績、得意な間合い、癖。顕在値による膂力差はどうやっても埋まらない。だが、、
「始め!」
合図と同時に、ダロスが踏み込んできた。
速い。予想以上に速い。俺は横に転がるようにして初撃を躱す。躱した、というより、削られた。かすった右腕から血が滲む。
観客の笑い声。
(冷静に。膂力で真正面から受けたら、一撃で終わる)
俺はこの体の限界を、既に何度も自分自身の内側で測定していた。踏み込みの速度、反応までの遅延、疲労が乗り始めるタイミング。数字はまだ粗いが、ないよりはずっといい。
「動きが単調だぞ、無属!」
ダロスが再び振りかぶる。大振りの一撃。だが俺は知っていた。この男は、大振りの後、必ず半歩だけ重心が流れる。三日間、観察した他の試合の映像――いや、記憶の中の映像から、そのわずかな癖を拾い上げていた。
避ける。
流れた重心の隙に、足を払う。
顕在値の差がある以上、まともにぶつかっては勝てない。だが、崩れた体勢からの反撃には、才能もへったくれもない。物理法則は誰にでも平等だ。
ダロスの巨体が傾ぐ。
「な――」
驚愕の声。俺は間合いを詰め、練習用の鈍らでみぞおちを突いた。急所は外す。殺すつもりはない。ここで死なせれば、この体もまた咎めを受ける。
「ぐ、う……っ!」
ダロスが膝をつく。会場が、水を打ったように静まり返った。
「そ……そこまで! 勝者、リド!」
司会の声が響いた瞬間、どっと歓声が沸いた。さっきまでの野次とは種類の違う、驚きの混じった歓声。
俺は肩で息をしながら、その音を聞いていた。
勝った。
だが同時に、冷静に理解していた。今のは、相手の癖を知っていたから成立した、いわば奇襲だ。真正面から膂力を競えば、俺は一瞬で終わる。まだ、何も積み上がっていない。
(それでも――第一歩は、踏み出せた)
胸の奥に、微かな熱がある。前世で何百人もの弟子を見てきた。才能のない者が、初めて一つ壁を越える瞬間の、あの熱だ。まさか自分がそれを、この年で、この体で、もう一度味わうとは思わなかった。
控室へ戻る途中、看守がやけに神妙な顔で近づいてきた。
「おい、リド。……総督閣下がお前を見てるらしいぞ」
「総督?」
「この属州を治める、ヴィクトル・レーン様だ。上級貴賓席から、お前の試合をずっと見てらしたって話だ」
胸の奥が、ざわりとした。良い予感はしない。
その夜。房に戻った俺のもとに、通常とは違う制服を着た男がやってきた。興行組合の紋章をつけている。
「リド、と言ったな」
「……そうだが」
「総督閣下がお前に興味をお持ちだ。銅級のダロスを、無属が下すなど前代未聞だからな」
男は檻の隙間から、俺を値踏みするように見つめた。
「近々、閣下直々にお目通りとなる。せいぜい、期待に応えることだな。……その意味、わかるだろう?」
男が去った後、俺は自分の手のひらを見つめた。まだ震えている。ダロスとの戦いの余韻だけではない、別種の緊張が這い上がってくる。
権力者の目に留まる。それは、庇護を意味するとは限らない。むしろ――もっと過酷な戦いへ、駒として組み込まれることを意味する場合の方が多い。
隣の房から、少年の声がした。
「おい、リド……お前、まさか本当に勝つとはな」
「運が良かっただけだ」
「運じゃあ、あの動きは出来ねぇよ。……お前、何者だ?」
俺は答えなかった。答えられるはずもない。
窓の外、闘技場の方角から、まだ観客のざわめきが微かに聞こえてくる。
三日後には、また次の戦いが待っている。そして今、総督という新たな影が、俺の前に伸び始めていた。
嵐は、まだ始まったばかりだ。




