無属、目を覚ます
血の匂いがした。
俺の血じゃない、はずだった。
俺は―剣を突き立てられて死んだはずだ。
薄暗い天井が目に映る。石造りの、ひび割れた天井。見覚えなど、あるはずがなかった。俺が最後に見ていたのは、王国騎士団本部の白い天井だ。信頼していた男の顔を、間近に見ながら。
「……あ」
喉から漏れた声は、自分のものではなかった。低く、掠れた四十男の声ではない。もっと高く、細い。少年の声。
飛び起きようとして、腕に力が入らないことに気づく。それどころか、体格そのものが違う。骨ばって、痩せて、傷だらけの――見知らぬ腕。
「起きたか」
しゃがれた声が横から降ってきた。振り向くと、鉄格子の向こうに立つ男と目が合う。看守の格好をした、無精髭の中年男だ。
「三日も寝てたぞ。しぶといな、無属のガキにしちゃ」
無属。
その言葉が、忘れていたはずの記憶を鈍く刺激する。ああ、そうだ。この世界には――俺の知る世界とよく似た、しかし決定的に違うルールがあった。
「……ここは」
「レーヴェクの闘技場付き奴隷房だよ。他に何がある」
看守はつまらなそうに言い捨てて、去っていった。
俺は自分の手のひらを見つめた。震えている。当然だ。この体は、まだ十五かそこらだろう。喉の奥から、こみ上げてくるものがある。困惑と、それを塗りつぶすような、冷たい絶望。
俺は死んだ。裏切られて、心臓の近くを刺されて、確かに死を悟った。あの瞬間の記憶は、鮮明すぎるほど鮮明だ。
なのに、なぜ生きている。なぜ、こんな見知らぬ体で。
――いや。
俺は奥歯を噛んだ。困惑している暇はない。状況を把握しろ。それだけは、四十年近く指南役として叩き込んできた鉄則だ。感情より先に、事実を並べろ。
壁に刻まれた文字を目で追う。奴隷剣闘士の管理房。格子の外には似たような房が並び、痩せた男や女がうずくまっている。誰もが一様に、覇気のない目をしていた。
「あんた、新入りか」
隣の房から声がした。頬に傷のある、俺と同年代くらいの少年だった。
「目を覚ましたばっかりだ。……ここは、剣闘士を集めてる場所なのか」
「今更聞くのかよ。無属のくせに、格付け戦で当てられたんだろ。運が悪いよな、お前」
格付け戦。無属。
言葉の端々から、少しずつ世界の輪郭が見えてくる。この世界には、力の強さが数値として自覚できる者たちがいるらしい。そういう者たちを「顕在者」と呼び、力を持たない者を「無属」と蔑む。
そして俺は――この体の持ち主は――無属として、剣闘士として、戦わされる立場にあるということだ。
俺は目を閉じ、自分の中に潜る。
奇妙なことに気づいた。この体の、微かな記憶の断片が、俺の意識の底に沈んでいる。誰かに拾われたこと。剣を持たされたこと。何度も殴られたこと。断片的で、朧げで――それでも確かに、俺のものではない誰かの記憶だ。
(お前は、誰だ)
問いかけても、返事はない。ただ、ちくり、と胸の奥が痛んだだけだった。
「―おい、聞いてんのか」
隣の少年の声で我に返る。
「悪い。少し、考え事をしていた」
「呑気だな。三日後に格付け戦だぞ。無属で、しかも寝込んでたお前が出るんだ。まともに戦えるとも思えねぇが……まあ、頑張れよ。死体は片付けてやるからさ」
軽口には棘があった。だが、悪意はない。ただの諦観だ。この房にいる誰もが、そういう目をしている。
俺は自分の手を、もう一度見つめた。
顕在化の力はない。数値で示される才能もない。この体は、誰かに軽んじられ、使い潰されることが前提で扱われている。
―だが、それがどうした。
かつて俺も、才能のない者たちだけで軍を組み、この国の何倍もの大きさを誇る帝国の精鋭を退けたことがある。数値がなければ、数値を自分で作ればいい。積み上げた記録と反復こそが、俺の――俺たちの、武器だったはずだ。
裏切られて死んだ。それは事実だ。悔しさも、怒りも、消えてはいない。
けれど今、俺の目の前にあるのは、また一からやり直せというにはあまりに残酷な、しかし紛れもない現実だった。
「名前、なんて言うんだ」
少年に問われ、俺は一瞬言葉に詰まる。かつての名を名乗るべきか。それとも。
格子の隅に、この体の記録らしき木札がぶら下がっているのに気づいた。刻まれた文字を読む。
―― 『リド』
「……リドだ」
自分の口から出た名前が、やけに他人行儀に響いた。だが、これが今の俺の名前なのだろう。
その時、遠くで鐘が鳴った。低く、重く、腹の底に響くような音。
「げ……もう時間か」
少年の顔から血の気が引く。
「なんの鐘だ」
「格付け戦の予告鐘だよ。今日決まったヤツの名前が張り出される。……お前、まさか」
看守が再びやってきて、格子越しに紙を突き出す。乱雑な文字で、いくつかの名前が並んでいた。その最後に、確かにこう記されている。
『無属 リド ―― 対戦相手・銅級剣闘士ダロス』
「……嘘だろ。寝込んでたばっかりの無属を、いきなり銅級と当てるのか」
隣の房の少年が絶句する声を、俺はどこか遠くに聞いていた。
体は震えている。恐怖からか、武者震いか、自分でもわからない。
だが不思議と、心のどこかは凪いでいた。
―やることは、変わらない。
現状を把握し、相手を分析し、積み上げられるものを積み上げる。それだけだ。才能がなくとも、俺はそうやって、かつて一つの戦を制した。
「……ダロス、か」
俺は木札を握りしめ、小さく呟いた。
三日後。この命一つで、また一から始まる。




