新しい朝
ヴィクトル失脚から三日が経った。
属州レーヴェクは、これまでにない混乱と、それを上回る期待の入り混じった空気に包まれていた。帝都から新たに派遣された臨時管理官のもと、興行組合の内部調査が急速に進められている。
「奴隷剣闘士の待遇改善案が、正式に検討されてるらしいぞ」
食堂で、ガロが興奮気味に話していた。
「金級以上の剣闘士には、自由民への昇格請願権が、これまでより早く認められる方向で調整されてるって話だ」
「本当か?」
「ああ。監査人が、直々に口添えしてくれたらしい。……お前の告発がなけりゃ、こんな話にはならなかったってよ」
俺は、静かにその報せを受け止めた。前世で多くの人々のために戦ってきた記憶が、今、この小さな一歩と重なる。
「セラは」
「記録室の整理を手伝ってる。……あいつ、随分と生き生きしてるぜ」
その言葉通り、セラは以前の怯えた様子が嘘のように、忙しく立ち働いていた。
「リド」
その日の午後、セラが息を切らせて駆け込んできた。
「父の行方について、手がかりが見つかったかもしれない」
心臓が、跳ねた。
「本当か」
「興行組合の古い記録に、"学者組合特別調査部"という組織の存在が記されてた。連行された学者たちの多くが、そこに送られたらしい……」
セラの声には、期待と恐れが入り混じっていた。
「その組織の正体、影楔と繋がっている可能性が高い」
俺は、深く息を吸い込んだ。
「なら、いずれ辿り着く。時間はかかるかもしれないが」
「ええ」
セラは、強い決意を込めた目で頷いた。
その夜、俺は一人、闘技場の外れにある小高い丘に立っていた。看守の目を盗んでの、束の間の自由だった。
夜空には、無数の星が瞬いている。
前世で失ったもの。裏切られた記憶。そして今、この世界で新たに得た仲間との絆。
積み上げてきた数字は、確かに一つの結果を生んだ。だが、それは終わりではなく、始まりに過ぎないのだと、俺は理解していた。
ゼインの抱える事情。影楔という組織の影。セラの父の行方。そして―アルドレア王国に残してきた、かつての教え子や仲間たちのこと。
まだ何一つ、解決してはいない。
「―リド」
背後から、聞き慣れた声がした。振り返ると、セラとガロが、丘を登ってくるところだった。
「こんなところで、何してんだ」
ガロが、呆れたように言った。
「少し、考え事をしていた」
「一人で抱え込むなよ」
セラが、隣に並んで立った。
「これから先のことも、みんなで考えましょう」
俺は、二人の顔を見つめた。
「ああ」
星空の下、三人並んで、遠くに広がる属州レーヴェクの街並みを見下ろす。祭りの余韻を残した明かりが、点々と灯っていた。
「一つの戦いが終わった。だが」
俺は、静かに言葉を継いだ。
「本当の戦いは、まだこれからだ。ヴィクトルの向こうにいる、より大きな影と向き合う日が、いずれ来る」
「上等だ」
ガロが、不敵に笑った。
「どこまでもついてってやるよ」
セラも、静かに頷いた。
「私も。父の真実を知るまでは、止まるつもりはない」
俺は、静かに拳を握りしめた。
前世で裏切られ、全てを失ったと思っていた。だが今、目の前には、新しい絆と、新しい目的がある。
―積み上げてきたものを胸に、俺たちは次の一歩を踏み出す。
夜空の向こうに、新しい朝の気配が、静かに近づいていた。
第一部「無属の剣闘士」完




