答えられない問い
「お前、何者だ」
ゼインの声には、隠しきれない緊張があった。剣の柄にかけられた手が、僅かに白くなっている。
俺は、必死に思考を巡らせた。
ここで真実を話すわけにはいかない。前世の記憶を持つ奴隷剣闘士だと明かせば、間違いなく殺されるか、あるいはもっと厄介な扱いを受けることになるだろう。だが、何も答えなければ、この場は収まらない。
「……名前は、噂で聞いただけだ」
俺は、できる限り平静を装って言った。
「噂?」
「監査人一行の中に、諜報機関の関係者がいるという噂が、剣闘士の間に流れていた。名前まではさすがに知らなかったが……お前が、その名で呼ばれるのを、たまたま耳にした」
苦しい言い訳だった。だが、完全な嘘でもない。実際、監査人一行の噂は闘技場中に広まっていたのだから。
ゼインは、探るような目でこちらを見つめ続けた。長い沈黙が流れる。
「……妙だな」
「何がだ」
「お前の目だ」
ゼインが、一歩詰め寄ってきた。
「無属の奴隷剣闘士にしては、随分と場慣れした目をしている。まるで……」
彼はそこで言葉を切り、僅かに眉をひそめた。
「まるで、何百人もの人間と対峙してきたような、そんな目だ」
心臓が、大きく跳ねた。核心に近い指摘だった。
「買いかぶりすぎだ。奴隷剣闘士なんて、命懸けの毎日を送っていれば、嫌でも目つきくらい変わる」
「……そうかもしれんな」
ゼインは、まだ納得しきっていない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。
そこへ、警備兵たちが慌ただしく駆け寄ってきた。
「監査人閣下がお呼びです、随行の方は速やかにお戻りください!」
ゼインは、一瞬だけこちらに視線を戻した。
「―この属州の監査は、まだ始まったばかりだ。お前のことも、もう少し調べさせてもらう」
そう言い残し、彼は踵を返して去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。全身が、冷や汗でびっしょりと濡れている。
「リド!」
ガロの声がした。振り返ると、ガロとセラが、心配そうな顔で駆け寄ってくるところだった。
「今の、誰だ。えらく剣呑な空気だったが」
「監査人の随行の一人だ。……少し、絡まれた」
「絡まれた、にしちゃ顔色が悪すぎるけど」
セラが鋭く指摘する。俺は誤魔化す気力もなく、小さく首を振った。
「牢に戻ってから話す」
その夜、俺は牢の中で、セラとガロに可能な限りの情報を打ち明けた。奴隷になる前に、こちらが一方的にあの男を知っていたということ。それだけを伝え、前世や、自分がかつての指南役だという核心部分、そして裏切られて死にかけたという経緯までは、まだ伏せたままで。
「……知り合いに、絡まれたってことか」
ガロが、複雑な表情で言った。
「詳しいことは、まだ話せない。すまない」
「いいさ。誰にだって、言えねぇことの一つや二つはある」
ガロは、それ以上詮索しなかった。だが、セラは違った。
「ねえ、リド」
彼女の声は、静かで、しかし真剣だった。
「あなたの秘密、いつか話してくれる?」
「……いつか、必ず」
俺は、それだけ答えるのが精一杯だった。
セラは、小さく頷いた。
「分かった。今は、それで十分」
牢の中に、しばしの沈黙が落ちる。窓の外、夜風が乾いた砂の匂いを運んできた。
「一つだけ、確かなことがある」
俺は、静かに言葉を継いだ。
「あの男―ゼインは、監査という名目で、この属州にしばらく留まるつもりだろう。そして、俺のことを調べようとしている」
「なら、俺たちも警戒を強めねぇとな」
ガロが、拳を握りしめながら言った。
「大興行までの間、奴の目的を探る必要がある」
セラが、羊皮紙を取り出しながら頷いた。
「監査という表向きの理由の裏に、何があるのか……調べてみる」
俺は、二人の顔を見つめた。
前世で裏切られた記憶は、まだ胸の奥に深く刻まれている。だが今、目の前にいる二人は、少なくとも今のところ、俺を裏切ってはいない。
その事実だけを、今は拠り所にするしかなかった。
―嵐は、もう目前まで迫っている。




