監査の日
監査人一行が属州レーヴェクに到着したのは、それから五日後のことだった。
闘技場全体に、これまでとは違う張り詰めた空気が漂っている。剣闘士たちの牢周りにも、普段より数の多い警備兵が巡回するようになった。
「監査人一行、貴賓席に入られました!」
看守の声が響き渡る。俺は鍛錬の手を止め、格子の隙間から遠くの貴賓席を見やった。
豪奢な装いの一団。中央にいるのは、恰幅の良い初老の男―おそらくそれが、興行組合本部から派遣された監査人本人だろう。ヴィクトルが、いつになく丁重な態度でその男を出迎えている。
そして、その一団の端に。
黒を基調とした装束を纏った、若い男の姿があった。
心臓が、大きく跳ねた。
距離があり、はっきりとは見えない。だが、その佇まい―剣を帯びる位置、僅かに斜に構える立ち姿、そして何より、隙のない気配の張り詰め方。
前世で、数え切れないほど見てきた姿だった。
「……ゼイン?」
自分の口から、その名がこぼれ落ちる。
「ん、今、なんて言った?」
隣で鍛錬を見ていたガロが、怪訝な顔でこちらを見た。俺は慌てて言葉を飲み込む。
「……いや、何でもない」
「顔、真っ青だぞ」
「大丈夫だ」
そう言い聞かせながらも、俺の手は、僅かに震えていた。
見間違いかもしれない。距離もあった。だが、確信に近いものが、胸の奥から湧き上がってくる。
あの男は―帝都の諜報機関の関係者として、この属州に来ている。
(なぜだ)
意識を失ったあの瞬間から先、ゼインがどんな時間を過ごしてきたのか、俺には知りようがない。それなのに、なぜ今、諜報機関の一員としてこの辺境にまで来ているのか。単なる偶然とは思えない。
「今日の午後、監査の一環として、剣闘士たちの模擬戦が行われるそうよ」
セラが息を切らせて駆け込んできた。
「模擬戦?」
「監査人一行が、剣闘士の実力を直接見たいって話。金級以上の剣闘士が数名、選ばれて実演することになったみたい。……あなたも、その中に入ってる」
心臓が、再び跳ねた。もし本当にあの男がゼインなら、模擬戦の場で、直接顔を合わせることになる。
「リド、大丈夫? 顔色、悪いわよ」
「……いや。準備をする」
俺は深く息を吸い込み、意識を切り替えようとした。だが、胸の奥の不安は、簡単には消えてくれなかった。
数時間後、俺は闘技場の中央に立っていた。相手は、模擬戦用に選ばれた別の金級剣闘士。だが、俺の意識は、貴賓席の一角に釘付けになっていた。
黒い装束の男が、こちらをじっと見つめている。表情までは読み取れない。だが、その視線の圧力は、確かにこちらに向けられていた。
「おい、集中しろ」
対戦相手の声で、我に返る。模擬戦とはいえ、油断すれば怪我をする。俺は意識を目の前の戦いへと戻した。
戦いは、これまで積み上げてきた分析と技術で、危なげなく制した。だが、勝利の余韻に浸る間もなく、俺の視線は再び貴賓席へと向かった。
黒い装束の男の姿は、いつの間にか、そこになかった。
「……どこに」
俺は周囲を見回した。ざわめく観客席の中、その姿を捜す。だが、見つからない。
「リドと言ったか?」
背後から、聞き覚えのない、しかし妙に懐かしさを感じる声がした。
振り返ると、そこに―黒い装束の男が、静かに立っていた。
間近で見るその顔は、記憶にあるものより幾分か大人びていた。だが、間違いない。
「……いや、お前にとっては、初対面になるのか」
男は、皮肉げに口の端を歪めた。
「ゼイン……」
俺の口から、無意識に名前がこぼれた。
男―ゼインの目が、僅かに見開かれた。
「……その名を、なぜお前が知っている」
闘技場のざわめきが、遠くに消えていくような感覚があった。二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちる。
「答えろ」
ゼインの声が、低く鋭くなった。剣の柄に、彼の手がそっと添えられる。
「…お前何者だ」




