6:魔王軍侵攻
魔王領の境界、損耗街ズォル。
この街に駐留する者にとって、明日などという言葉は、安っぽい気休めに過ぎない。
魔王国軍の侵攻。それは過去幾多のループにおいて、アルトが迎える確定した終焉だった
。私がどれほど冒険者の配置を変え、オーダーの順番を操作し、戦場での立ち回りを教え込もうとも
―――魔王軍将軍という名の『必然』は、必ずアルトの前に立ち塞がり、彼の命を刈り取る。
何をしても無駄だ。
介入すればするほど、運命はより強固な悪意を持って彼を追い詰める。
であれば、今回は何もしない。
彼が積み上げてきた経験と訓練の成果だけを信じよう。
それ以外の道は、この三十九回目の盤面には存在しないのだから。
◇◇◇◇◇
ギルドホールは、異常な熱気に包まれていた。
掲示板に張り出された『ギルドオーダー』。それは王国軍からの緊急動員令であり、この街にいる全ての冒険者に突きつけられた強制参加の勅命だ。
ギルドには、総勢300名近い冒険者が集まっており、入りきれない者が通りにまで及んでいる。
ギルドの誇る精鋭たち。昨日まで酒場で談笑していた者たちが、今は死地を前にして武器を研ぎ、ポーションの残量を確かめている。
ギルドオーダーへの参加報酬は破格だ。死ぬか、稼ぐか。その二択しかない彼らにとって、この戦いは昇進の好機か、あるいは最後の賭けか。
そこに不思議と悲壮感はなかった。あるのは、荒くれた者たち特有の、研ぎ澄まされた静かな闘志だけ。
「ご無事で」
カウンターの奥で、私たちは声を枯らして送り出す。
「ご無事で。」
「ご無事で。」
「ご無事で。」
事務的な儀式。ギルドオーダーの時にこの街で繰り返される、ありふれた別れの言葉。
私も、例外ではない。目の前の冒険者にカードを返し、冷徹な微笑みを貼り付ける。
そして、その時が来た。
アルト・フェリクス。
彼がカウンターの前に立つ。
心臓が不快な音を立てて跳ねた。胸の奥に、得体の知れない塊が冷たく居座る。
私は努めて機械的に手続きを終え、彼のカードを指先で弾いて返した。
顔を上げない。ただ、淡々と告げる。
「―――ご無事で。」
アルトは一瞬だけ、私の指先を―――あるいは私の貼り付けた冷酷な仮面を―――見つめた気がした。
けれど、彼は何も言わなかった。
ただ小さく頷くと、踵を返して出口へと歩き出した。
その背中は、半年前にこのギルドへ来た時の、頼りなく震えていたものとは比較にならないほど力強い。
祈りは不要だ。
私はただ、私の盤面が正しく機能することを願うだけ。
彼の背中が扉の向こうの喧騒に消えていくのを、私はただ黙って見送った。
◇◇◇◇◇
昼過ぎ、魔王軍は国境を越え、戦いの火蓋が切られた。
遠くで鳴り響く地響きが、この街を震わせる。
ギルドの掲示板には、絶えず戦況を伝える報が届く。
手を組んで祈る者。落ち着きなく歩き回る者。平常心を装うために、意味のない書類整理を繰り返す者。
私たちは極度の緊張の中、ただただ彼らが無事に帰還するのを待ち続けた。
そして、初日が終わる。
アルトは死ななかった。
手帳には、何の追記もされていない。
24時間体制のギルドは、戦場の写し鏡と化した。
ホールは冒険者たちの寝床となり、地下の訓練場は臨時の救護所へと姿を変える。
至る所から呻き声が聞こえ、廊下には血の匂いが染み付いている。私たち受付嬢は、仮眠と業務の合間を縫いながら、次々と運ばれてくる冒険者たちの顔を確認する。
私の視線は常に、入り口に注がれていた。
アルトの姿がないことを確認するたびに、安堵と、言いようのない虚無が交互に胸を刺す。
開戦3日目。
戻ってきた冒険者からの報告で、ホールが沸き立った。
初日の拮抗状態を抜け、2日目に魔王国軍の主力前線が瓦解したという。
王国軍の押し戻しが始まったらしい。
開戦4日目。
魔王軍が北方面に展開していた別動隊が全滅したという報が入った。
もはや勝利は疑いようがない。
開戦5日目。
王国軍は国境まで兵を押し戻し、魔王軍は戦線を維持できずに退却を開始した。
開戦6日目。
昼過ぎ、魔王軍が完全に撤退した。
これをもって、この街を襲った悪夢は終結した。
夕方、ようやく冒険者たちが戻り始めた。
すべての者が埃まみれで、血に染まり、限界を超えた疲労を顔に貼り付けている。
私は、ただひたすらに帰還手続きの判を押し続けた。
心ここにあらず。目の前の冒険者が誰かも分からぬまま、ただ作業を繰り返す。
深夜、最後の冒険者の清算が終わったとき、事務所から出てきたギルド長が、疲れ切った受付嬢たちに臨時手当の袋を手渡した。
「よくやった。今日はゆっくり休め。」
今日、アルトの姿を見つけることはできなかった。
その事実に気づいたとき、私は自分が酷く冷たい人間であることを思い知らされた。
安堵でも、焦燥でもない。
ただ、静かな空白が心の中に広がっていた。
◇◇◇◇◇
一週間ぶりの私の部屋のベッドは、ひどく冷たかった。
翌朝、私は誰よりも早くギルドに入り、山積みの帰還手続きの束をすべて確認した。
無い。
―――まだ戻ってきていないだけ。そうよね。
当面の間、ギルドは開館はするが通常のオーダーを発行する予定はない。
私は当番を名乗り出て、毎日一人でカウンターに座っていた。
開館すると、手続き漏れの冒険者が数人、フラリと現れる。
しかし、アルトは来ない。
三日目、四日目。
静まり返ったギルドは、まるで墓場のように思えた。
あの騒がしかった冒険者たちの声も、今となっては遠い夢のように感じる。
そして、運命の時は唐突に訪れた。
朝、いつものように目覚めると、一瞬視界が歪んだ感覚があった。
そして毎日のルーチンになっている手帳の確認。
『39 アルト 死亡 魔王城で魔王と戦う』
不思議と驚きはなかった。
ただ、妙に納得していた自分がいた。
「そう……アルト。
あなた、
魔王城にたどり着いたのね。」
声に出すと、それは酷く他人事のように響いた。
彼が魔王城で何を見たのか、どのような最期を遂げたのか。一介の受付嬢に過ぎない私には、知る術もない。
けれど、想像することはできた。
彼は強くなった。私が導き、私が鍛えた。
そんな彼が、将軍如きに討たれるはずがない。
きっと彼は、その先の魔王という名の『運命』そのものに挑んだのだ。
そう思うと、胸の奥で何かが弾けた。
今まで感じていた、退屈な日常への倦怠感。リープを繰り返すことへの嫌悪。
そんなものが、すべて霧散していく。
私は、アルトという存在を誤解していた。
彼はただの『消耗品』でもなければ、『管理される駒』でもなかった。
彼は、運命という名の巨大な意志に抗う、唯一無二の英雄になろうとしていたのだ。
「アルト。」
私は手帳を閉じ、ふわりと微笑んだ。
冷徹な管理者の仮面は、もういらない。
鏡に映る私の顔は、驚くほど晴れやかで、そして―――狂気に満ちていた。
「私があなたを必ず、魔王城に連れて行ってあげるわ。」
今までは、守るためのリープだった。
これからは違う。
これは、彼を最強の駒として完成させるための、壮大な儀式だ。
私は机に山積みの書類を払い除け、立ち上がった。
次のリープ、四十回目。
私の手は、運命を事務的に書き換えるのではなく、運命そのものを蹂躙し、支配するためにある。
待っていて、アルト。
何度繰り返しても、何度塵になっても。
私が、あなたを魔王の御前まで引きずり上げてみせる。
・・・・・
アルトが魔王城にたどり着いたこと。
それは喜ばしいこと。
私はそう思っていた。
しかしこの出来事が、その後に取り返しのつかない大きな変化をもたらすきっかけになるとは、
その時の私には全く分からなかった。




