タイトル未定2026/06/03 18:32
夜の九時をまわり、医師会を終えたマスターは繁華街を歩いていた。
医師会に出席した医師達に食事に誘われたが、マスターは食事を断り、繁華街の中を歩いていた。
「マスター?」
その声にマスターは、振り返った。
そこには、仕事帰りのグレーのスーツ姿の水田菓子メーカー営業部の馬場がいた。
「馬場さん」
馬場は、マスターに近寄った。
長身なマスターとさほど身長が変わらない馬場は、初めて見る濃い青色のスーツ姿のマスターに驚きの声を上げた。
「マスターのスーツ姿、初めて観た!何か、あったんですか?」
「まぁ……」
言葉を濁すマスターに、馬場は笑いながらマスターの背中を押した。
「なんでもいいか!マスター飯食った?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、食いに行こうぜ」
馬場はマスターの背中を押して、目についたチェーン店の居酒屋に入って行った。
居酒屋は、スーツ姿の男性で占めていた。
マスターと馬場は、カウンター席に案内された。
「俺、生だけど、マスターは?」
「同じで」
「生、二つね」
馬場はカウンター席に案内をした店員に言った。
注文した生とお通しは、すぐ運ばれた。
馬場は生を半分程飲んだ後、電子タバコを吸い出した。
「馬場さんって、タバコを吸うんですか?」
「皆の前では、吸わないけど。マスターは?」
「数年前までは吸っていましたけど、やめました」
「マスター吸っていたんだ!」
馬場は、驚きの声を上げた。
馬場は、メニュー表を眺める横顔のマスターをそっと眺めた。
……初めて観るスーツ姿と言い、メニュー表を眺める横顔といい、何をやっても絵になるよな。
タバコを吸う姿も、格好いいんだろうな。
ホント、マスターっていい男だよ。
「馬場さん、何を頼みますか?」
言いながらマスターは、メニュー表を馬場に渡した。
馬場は我に返り、マスターからメニュー表を受け取った。
「そうだなぁ。焼き鳥の盛り合わせと鶏の唐揚げ。マスターは?」
「ナスの一本漬けとトマトの肉詰めチーズ焼きかな」
「ついでに、酒も頼むか。俺は、ハイボール。マスターは?」
「ボクも、ハイボールにしようかな」
馬場は通りかかった店員に声をかけ、注文をした。
ハイボールはすぐ、マスターと馬場の目の前に置かれた。
「お待たせしました」
ハイボールを飲んでいると、店員がナスの一本漬けを持ってきた。
マスターと馬場は、ナスの一本漬けをつまんだ。
「友光さんと、仲が良いですね。付きあっているんですか?」
突然の思いがけないマスターの言葉に、飲んでいたハイボールを馬場は噴き出しそうになった。
「……なんだよ、突然!マスターらしくないな」
「ずっと、気になっていたので」
マスターが言った友光ちはる。
水田菓子メーカー営業部で、馬場と一緒に勤務する同僚の女性。
馬場より一つ年下のちはるは、女性ながら気が強く、おまけに口は悪い。
しかし、裏表のないさっぱりとした性格だった。
長年一緒に仕事をしていて、時に意地の張り合いをするが、いつの間にか馬場の隣にはちはるがいた。
「付き合ってなんて、いねぇよ。腐れ縁だよ」
強がって言う馬場に「本当は、好きなんでしょ」と、マスターは言いたくなった。
……好きなのに、想いを伝えられない。
少し前の、ボクと同じだ。
馬場に近親感を、マスターは感じた。
「お待たせしましたぁ」
注文をした料理が次々に運ばれ、カウンター席にずらりと並んだ。
そのタイミングで、馬場はハイボール、マスターは冷酒を注文した。
馬場は焼き鳥をつまみながら、マスターに聞いてきた。
「俺のことより、マスターはどうよ?」
冷酒を飲んでいたマスターは、馬場を見た。
「シロちゃんと、うまくいってんの?」
「まぁ……ね」
言いながらマスターは、鶏の唐揚げをつまみ出した。
「えっ!うまくいってるの?すげぇじゃん!」
馬場はマスターの背中を叩きながら言うので、危うく鶏の唐揚げを詰まらせそうになった。
少し涙目のマスターに気づきもしない馬場は、更に声を張り上げた。
「ちゃんと出かけたんだよな?何処行った?何した?もう、関係を持った?」
馬場のドカ声に周囲の客たちが、好奇の目でマスターと馬場を眺めていた。
「馬場さん、声が大きいですよ」
慌ててマスターは言ったが、悪びれもせず言った。
「あぁ、悪い。デートはどうだった?」
「デートって、ほどのことでもありません」
「カッコつけちゃって!シロちゃん、可愛くて良い子だもんな。嬉しかっただろ」
「楽しかったですよ」
流花が初めて着せて見せた、大胆なファッションを思い出しながら馬場に顔を伏せて冷酒を飲んだ。
馬場はトマトの肉詰めチーズ焼きを、つまみ出した。
「おっ、これうまい!マスターナイスチョイス」
マスターも一緒に、トマトの肉詰めチーズ焼きをつまんだ。
「メニュー表の文字を見たら、美味しいと思って。アタリでしたね」
ハイボールを飲んだ馬場が、少し心配そうに言った。
「シロちゃん、大学何年生だっけ?」
「三年生です」
「三年生かぁ。忙しいんだろうなぁ」
「そうですね。ゆっくり、会う時間なんてありません」
「会う時間がなくても、マメに電話やラインとかしてる?そう言うの大事だぜ」
何気ない馬場の言葉に、気付かされる思いだった。
……忙しさにかまけて、流花の声を聞いていない。
馬場がハイボールを飲み、マスターが冷酒を飲み、静かな時間が流れた。
ハイボールのジョッキを置いた馬場が言った。
「俺が心配をしているのは、年の差だよ。シロちゃん、大学生だろ。俺達とはある意味、違う世界に住んでいるんだぜ。脅しじゃないけど、同世代の男にコロっていくことがあるかもだぜ」
「それは……ボクも思う時があります」
現にマスターは偶然、流花が同じ大学生の友人達と楽しそうに歩いている姿を見た。
その中には、男性二人がいた。
嫌でもマスターは年の差や、住む世界が違うことを思い知らされた。
「シロちゃん、誰が見ても可愛いぜ。凄く良い子だし。男なら、ほっておけないよ」
ハイボールのジョッキを、あおいだ馬場は続けた。
「だからさ、会えなくても電話やラインをマメにしたほうが良いぜ」
マスターは冷酒を飲みながら、馬場の言葉を聞いていた。
注文した料理を食べ終え、馬場はメニュー表を眺めた。
「そろそろ、しめといくか。マスター、何にする?」
マスターも一緒にメニュー表を眺めた。
「そうですね……焼きおにぎりに、します。馬場さんは?」
「俺はぁ……濃厚チョコケーキ!」
マスターは驚いた顔で、馬場を見つめた。
濃厚チョコケーキが来ると、馬場は幸せそうに食べだした。
「馬場さん、甘いものが好きなんですね」
「おう。だから、菓子メーカーに就職したんだ」
なるほどと、マスターは納得をした。
「あっ、俺が甘いもの好きって言うこと、シロちゃんには内緒だよ」
言いながら馬場は、マスターに向かってウインクをした……つもりだったが、実際は両目をつぶっていた。
そんな馬場を見て、マスターは静かに微笑んだ。
流花の口から「馬場さんと飲みに行った」と、語られたことがあった。
……あの時は少し嫉妬をしたけど、流花は馬場さんと、きっと楽しく飲みに行ったんだろうな。
今ならわかる。
今度は、馬場さんと流花と三人で飲みに行きましょう……と、馬場さんに言ってみようか。
そう思えるほど、馬場と一緒に飲んだことが楽しかった。
最後の一口の濃厚チョコケーキを、名残惜しそうに食べる馬場をマスターは見つめていた。
いつもの慌ただしい日常を抜け出して、今夜はこの居酒屋で馬場と二人きりで、束の間の休息を過ごした気分のマスターだった。




