46・谷の夜1
谷は深く、傍には川が流れている。
だから深夜に聞こえるのはひたすら川の音で、昨日まで夜の供だった夜行動物の鳴き声は遠くてほぼ聞こえない。川の両脇は崖であるから空は遠く、見える範囲は限られている。それでも川の上は障害物が何もないから、窪みの外へ出れば川の形に切り取られた見事な星空を見る事が出来る。
本当に、昨夜までとは景色が一変した。更に言うなら上からは見えない位置にいるというのと、周囲に獣の気配がないのもあって安心感が全く違う。皆がここ数日では見てないくらい完全に熟睡している様子を見れば、アルスも少しだけ肩が軽くなった気がするというものだ。
「それにしても、これ、便利ですね」
「そうだろ。これだと光が必要以上に漏れない」
夜の見張り組としてアルスとシオール、ジェアとトレックが起きているのはいいとして、何故かシェノンが私も付き合うと言って一緒に火を囲んでいた。火といっても焚火を囲んでいるのではなく、シェノンが持っていたランプとは少し違った火を入れる台みたいな奴の中の火だ。台の側面に仕切りを入れて必要以上に光が漏れないように出来るから、上から見て見つかることもないそうだ。
「ただこれだと流石に暗すぎる。動物避けにはならないんじゃないか?」
ジェアのその疑問には彼女がすぐに答える。
「あぁ、この辺りには動物除けの結界が張ってあるから大丈夫だ。まぁ、動物自体あまりいないがな」
「結界……というのは?」
「動物が嫌がって避けるようなものを周囲に設置してる、とでも思ってくれればいい」
そんな便利なものがあるのか、と感心したのは当然だが、それで戦士でもない女性一人での旅が成立するのに少し納得出来た。とはいえ、依然として彼女は謎だらけだ。
「彼女のいたところは俺達よりもいろいろ技術が進んでいるようだから、多分、詳しい説明を聞いても理解出来ないだろうね」
まだ少し不満がありそうだったジェアにそういえば、彼はそれ以上聞くのはやめたのか、今度はアルスに向き直る。
「お前は、彼女が信用出来ると判断したんだな?」
顔は大真面目だ。
「そうだよ。まず、見て分かる通り彼女はずっと遠い……俺達とは違う生活圏から来た人間だから、俺達の地域の戦いも利権も関係ない、第三者的な位置の人間だ。少なくともナグラック側について俺達をどうこうする気はないのは確実だね」
けれどジェアはそれでもまったく表情を変えず、どこか険しい声で言ってきた。
「確かに彼女はこっちの部族間争いに対しては無関係な人間だろう。だがもし彼女の所属しているところが俺達の地域全部を手に入れようとしていて、彼女がそのために情報収集しているとすれば?」
それには少しアルスは驚いた。ジェアがそこまで考えられる人間だとは思わなかったからだ。とはいえその疑問自体は当然アルスも考えた。考えた末の結論がこの答えだ。
「ま、それならそれでいいんじゃないかな?」
「……はぁ?」
口も目も大きく開いたままのジェアに、アルスは笑う。
「今のところ俺達にとっての脅威はナグラックだ。奴らから逃げ延びる事が最優先事項なんだから、いっそあの地域一帯を手に入れようとしてる連中がいるなら、こっちは喜んで情報提供の代わりに保護してもらえばいい」
ジェアの目と口が更に大きく開かれる。まるで信じられないものをみたような顔で……なんだかアルスは楽しくなってきた。
「お前は……そういう奴らに……頭を下げて利用されてもいいっていうのか?」
「頭を下げるだけで皆の安全が保障されるなら俺はいくらでも下げるよ。それに利用される分、こっちも相手を利用すればいい」
アルスは思う。一方的に利用されるのは利用される側が悪い。利用される立場をうまく使えば相手を利用する事は可能だ。ようは交渉次第。利用しようとしてくる相手の要求のために、相手が飲める程度の要求をこちらからもすればいい。それに、彼女の所属しているところがこちらよりも文化レベルが上なら、いきなり野蛮なマネはしてこないだろうと踏んだのもある。
「成程、お前はそういう考え方をするのか」
「そうだよ。俺自身が弱いから、弱いなりの立ち回り方を考えるんだ」
すっかり呆れた顔のジェアが、そこで力なく笑う。
「……どうしてお前が親父との勝負でそいつに勝たせる事が出来たのか分かった気がする」
言いながら彼は下を向いた。アルスはわざと彼を見ずに言った。
「運が良かっただけだよ」
「運じゃあの親父には勝てない。あいつは強さだけは本物だった」
ジェアの声が震えている。突然感情がこみあげてきただろう彼の気持ちが分かったから、アルスはやはり彼を見ないまま言った。
「うん、クォーラ様は強いよ。父上が、歳には勝てない、あと数年で俺の方が下になるっていってたからね」
それに返されたのは笑い声。いや、半分嗚咽だ。
アルスは彼を見なかった。彼の傍にいるトレックも、主の状態を分かっているからかあえて何もせずただ黙っていた。シオールも、シェノンも、彼を見ないでいた。
誰も何も話さない空間で、ただジェアの抑えた嗚咽だけが聞こえる。けれど、誇り高い戦士である彼はやがて声を抑え込むと、暫くしてから呟いた。
「悪いな。今になって……」
「俺は何も見てないよ」
やはり軽く返せば、また笑い声が返ってくる。ただし、今度は嗚咽交じりではない、ただの笑い声だ。アルスは大きく背伸びをしてから、顔をあげたジェアを見た。彼の目は赤くなかった、涙は耐えたんだと思うとちょっと尊敬してしまう。
次回はこの続きでシェノンさんとの会話がメイン、かな。




