42・崖の下2
実際、向こうは邪魔をする気はないらしく、ただじっと腕を組んでこちらが下りてくるのを見ているだけだった。そうしてシオールの足が地面についたのを確認してから、こちらに向かって歩いて来た。
さすがにシオールも警戒して、相手が近づきすぎる前に声を上げる。
「何者ですか?」
聞けば相手は足を止める。相手の位置はまだくぼみの下だから上からは見えないだろう。ただ近づいた事で、シオールは相手の顔を見る事が出来た。黒く長い髪に緑の瞳、白いほっそりとした顔つきに赤い唇、左頬には何か文字のようなものが描かれている。服で体の線はまったく見えないが十中八九、女性と見て間違いない。
シオールの声から一瞬の間をあけて、その人物は少し苛立ちの混じる声で返してきた。
「それはこっちの台詞だ。お前と、上にいるお前の仲間達は何者だ? なんでこんなところに下りてきた?」
声からも女性だと確信する。しかも言葉が通じただけでなく、こちらの言葉で返して来た。という事はクルス村と交流があった人間かと思ったが、少なくとも村で見た事はないし、なにより服装が異質過ぎる。まったく知らない遠くの地からきた人間、と考えるのが自然だろう。
――こういう事態は、アルス様に任せたいところですが。
ただゼラの手の者ではなさそうだと思ったから、シオールは最低限の状況を説明する事にした。
「我々は他部族に襲われて逃げて来ました。追われているのでこの谷へ下りようという事になって、まず俺が下りられるか試してみた、というところです」
「……嘘ではなさそうだな」
「こちらは質問に答えました。今度はあなたが答えて下さい」
すかさずそう言えば、女は僅かに眉を寄せたが、それでも答えは返してくれる。
「私は神官だ。旅をしている」
「一人でですか?」
「そうだ」
女の歳は二十そこそこ、どうみても戦士ではない。そんな彼女が一人で旅をしているなんて普通はあり得ない。敵ではなさそうだが、不審人物ではある。
シオールの考えを察したのか、彼女は自らこちらの疑問に答えた。
「私には神の加護がある。だから一人でも問題ない」
簡単に信じられる台詞ではないが、そこはヘタに真に受けないでおくことにした。ただ、重要な事だけは確認しておく。
「では、一つ確認です。あなたはこちらに対して妨害したり、危害を加える気はありませんね?」
「あぁ、誓って今のところそんな気はない。ただお前達に興味はある。なにせ全く違う生活圏の者達だから、出来たらいろいろ聞いてみたい」
「何を聞きたいのですか?」
「そうだな……お前達がどこでどんな生活をしてきて、どんな戦い方をしてどんな敵に追われてるのか――とか。私にとってお前達は未知の人間だ、何にでも興味がある」
あまり表情を崩さなかった彼女の顔に笑みが浮かんで、やけに浮かれたような、楽しそうな声でそう言ってきた。その様子からして、純粋に好奇心で自分達の話を聞きたいのだとシオールは理解した。
「おーい、何かあったのかー」
そこで上から声を掛けられて、シオールはそちらを見てから、またちらと彼女を見た。彼女は少し意地の悪そうな顔で言ってくる。
「もしこちらの聞きたい事を教えてくれるなら、お前達が逃げるのを手伝ってもいい、どうする?」
――本当に、こういう交渉はアルス様にお願いしたいのですが。
ただおそらく、状況を知ればアルスが自分から交渉したがるかと思って、シオールは考えた末に上に向かって声を張り上げた。
「下りても大丈夫そうです。ただ人がいました、敵ではありません、少なくともこの辺りの人間ではないのは確実です」
シオールの思惑は当たって、その後真っ先にアルスが下りてきた。
次回はアルス視点で彼女との話。




