第四章:マンモス校の記憶と、消えた彼女
---
## 五月の終わり、距離が縮んだ話
まるきには、週に二回通うようになっていた。
火曜日と木曜日。決めたわけじゃないけど、気づいたらそうなっていた。ナミさんと会えるときもあれば、会えないときもある。会えたときは一時間くらい話して、会えなかったときはなんとなく物足りない気持ちでアパートに帰る。
そういう五月だった。
話す内容も、だんだん変わってきた。最初は仕事の話や町のことが多かったけど、最近は趣味の話や昔のことも出てくるようになった。ナミさんはミステリ小説が好きで、料理は得意だけど面倒なときはしないと言っていた。好きな食べ物は、肉より魚。苦手なものは、人混み。
少しずつ、輪郭がはっきりしてきた。
でも——ときどき、あの違和感が顔を出した。
僕の話に対する反応が、少し早すぎるような気がすることがあった。僕が言いかけた言葉を、自然に引き取るような間の取り方。僕の好みを、聞く前から知っているみたいな選択。
気のせいかもしれない。
聞き上手な人って、そういうものかもしれない。
そう思って、流していた。
---
## 木曜日の夜、中学の話になった
六月の最初の木曜日。
梅雨入り直前の、蒸し暑い夜だった。まるきのカウンターで、僕たちはいつものように並んで座っていた。今日のナミさんのTシャツは——
**「湿度が敵」**
「それは今日に限らず、梅雨全体に言えますよね」
「……六月は毎日着ようかと思ってます」
「それはもうTシャツじゃなくて日記ですよ」
ナミさんが、ふっと笑う。
その流れで、なんとなく昔の話になった。出身地の話から、通ってた学校の話へ。
「中学、どこだったんですか」と僕が聞いた。
「……県外です」
「どのあたり?」
「T市の方です」
僕の箸が、止まった。
「T市って——もしかして、一学年十五クラスとかあるやつですか」
ナミさんの手が、少しだけ止まった気がした。
「……そうです」
「僕もT市出身で。中学、もしかして第三中学ですか」
一秒、間があった。
「……第三、です」
僕は思わず「えっ」と声を出した。
「同じだ。何年生まれですか」
「二〇〇三年」
「僕も。じゃあ同い年で、同じ中学——ってことは同級生じゃないですか」
ナミさんは、静かに味噌汁を飲んだ。
「……そうなりますね」
その答え方が、少し妙だった。
驚いていない。まるで——知っていたみたいな、そういう落ち着き方だった。
---
## マンモス中学の記憶
「第三中、懐かしいな。一学年十五クラスって、今思うとおかしいですよね」
「……大きかったですよね」
「入学式、体育館に入りきらなくて二回に分けてやりましたよね。覚えてます?」
「……覚えてます」
「僕、あの中学で友達できるか本当に不安で。クラス替えのたびに、前のクラスの人たちがどこにいるかわからなくなって」
「……人、多かったですから」
「ナミさんは、どうでしたか。友達とか、わりとすぐできました?」
ナミさんは少し間を置いた。
「……あまり、目立たない方だったので」
「そうなんですか。今は、かなり目立ってますよね」
Tシャツを見ながら言うと、ナミさんは「……そうですね」と言って、静かに笑った。
その笑い方が、いつもより少し違う気がした。
どこか、遠くを見ているような。
---
## Tシャツの文字が、変わった
食事が終わって、お茶を飲んでいた。
会話が少し途切れたタイミングで、ナミさんがカウンターに視線を落とした。
僕はふと、今日のTシャツをもう一度見た。
さっきまで「湿度が敵」だと思っていた。でも——
違った。
薄暗いまるきの照明の中で、ちゃんと見ていなかった。
白地のTシャツに、筆文字で書かれていたのは——
**「思い出しましたか?」**
……え。
僕は目を細めて、もう一度確認した。
思い出しましたか?
疑問符付きで、筆文字で。
「……そのTシャツ」
声に出したら、ナミさんがゆっくりこちらを向いた。
表情は、いつもより少し緊張しているように見えた。いや、違う。緊張というより——何かを、待っているような顔だった。
「それって、どういう意味ですか」
ナミさんは少しだけ目を伏せた。
「……どう思いますか」
質問を、質問で返された。
僕は、今日の会話を頭の中で巻き戻した。
T市。第三中学。同い年。一学年十五クラス。目立たない方だった。
それから——僕の話に対する反応が、少し早すぎること。好みを聞く前から知っているみたいなこと。最初に会ったとき、驚かなかったこと。
全部が、一本の線で繋がりそうな気がして——
「もしかして」と僕は言った。「ナミさんって、僕のこと——」
まるきの引き戸が、ガラガラと開いた。
「いらっしゃい」とおじさんの声がして、サラリーマン風の男性が二人入ってきた。
その瞬間に、空気が変わった。
---
## 明かされた夜
新しい客が席についてから、しばらく沈黙が続いた。
僕はお茶を飲んで、ナミさんは手元の湯呑みを見ていた。
おじさんが奥に引っ込んだタイミングで、ナミさんが静かに口を開いた。
「……第三中の、図書室」
低い声だった。
「三年生の春。棚の補修作業、手伝ってた人がいて」
記憶の、深いところを探った。
図書室。三年生。棚の補修。
「……委員会、でしたよね。僕、図書委員で」
「はい」
「ナミさんも?」
「違います。ただ、図書室にいることが多くて」
一拍置いて、ナミさんは続けた。
「ハルキさんは、本を直しながらよく鼻歌を歌ってました。自分では気づいてなかったと思いますけど」
……覚えていない。でも、やりそうだと思った。
「中庭にいることもありました。お弁当、いつも同じ場所で食べてましたよね。フェンスの近くの、ベンチ」
「……覚えてます、そのベンチ」
「木曜日は、たいていひとりで食べてた」
僕は何も言えなかった。
ナミさんは、湯呑みを両手で包んだまま、少しだけ声を落とした。
「大勢の中に、いつもいました。十五クラスもあったから、同じ学年でも知らない人の方が多くて。先生にも、友達の友達にも、顔を覚えてもらえなかった。いても、いなくても、同じような気がしてた」
そこで少し間が空いた。
「ハルキさんは——気づいてないと思いますけど、一回だけ、声をかけてくれたことがあって」
「……僕が?」
「図書室で、本を落として。拾ってくれて、『これ面白いよ』って言ってくれた」
記憶にない。でも——しそうだなとも思った。
「それだけですか?」
「……それだけです」
ナミさんは少し笑った。自嘲するみたいに。
「たったそれだけなのに、忘れられなくて。卒業してからも、ずっと」
---
## 切実な、願い
「この町に来たのは」と僕は聞いた。
ナミさんは少し間を置いてから、静かに言った。
「……ハルキさんが、ここに配属されるって、SNSで見て」
僕は返す言葉を、しばらく見つけられなかった。
「怖かったです。また普通にしてたら、見落とされると思って」
Tシャツを、少し引っ張るような仕草をした。
「だから——絶対に、二度見される格好にしようって」
そういうことだったのか。
全部が、繋がった。
初めてコンビニで見たときの「こんなにも元気なんです」。スーパーで笑いをこらえきれなかった「今日のご飯はカレー」。声をかけたとき、驚かなかった理由。僕の好みを知っていた理由。反応が少し早かった理由。
全部、ここに繋がっていた。
「……もう二度と、大勢の中に紛れて見失われたくなかった」
ナミさんの声は、静かだった。
震えてもいないし、泣いてもいない。でも、その言葉の中に、ずっと抱えてきたものの重さが確かにあった。
僕はしばらく、何も言えなかった。
---
## まるきを出た後
会計を済ませて、二人で外に出た。
六月の夜は湿気があって、街灯の光がにじんで見えた。
ナミさんは少し前を向いたまま、「……気持ち悪かったですよね」と言った。
「気持ち悪くないですよ」
即答だった。我ながら、早かった。
ナミさんが、少し驚いたようにこちらを見た。
「ただ——」と僕は続けた。「びっくりはしました。全部のTシャツが、そういうことだったのかって」
「……全部、ではないです。『湿度が敵』は、わりと本音です」
「そこは本音なんですね」
ナミさんが、今夜一番やわらかい顔で笑った。
僕も笑った。
「ちゃんと、話してくれてよかった」
そう言うと、ナミさんは少し目を伏せて「……ありがとうございます」と言った。
最初にスーパーで声をかけたとき、同じ言葉を言ってくれた。あのときと同じトーンで。
でも今度は——意味が違う気がした。
---
六月の夜風が、少しだけ涼しかった。
隣を歩くナミさんのTシャツには「思い出しましたか?」の文字。
まだ、僕の答えは言えていない。
でもそれは——次の話だと思った。




