第五章:メッセージの先にあるもの
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## 六月の雨と、整理できない気持ち
次の日から、雨が続いた。
梅雨入りのニュースをスマホで見ながら、僕はアパートの窓を眺めた。灰色の空から、細い雨が途切れなく落ちている。傘を持って出勤して、濡れた靴下のまま仕事をして、帰り道にコンビニでホットのコーヒーを買う。そういう一週間だった。
頭の中は、ずっとあの夜のことだった。
ナミさんの話を、何度も反芻した。図書室で本を落としたこと。中庭のベンチで昼ごはんを食べていたこと。「これ面白いよ」と言ったこと。
全部、覚えていない。
でも——確かに、そこにいたんだ。ただ見えていなかっただけで。
それが、なんか、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
見えていなかった側の話を、こんなにまっすぐ聞かされたのは初めてだった。責められているわけじゃない。でも「気づいてないと思いますけど」という言葉が、妙に重かった。
僕は、どうしたいんだろう。
答えを出せないまま、雨の一週間が過ぎた。
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## まるきへ、行けなかった
火曜日も、木曜日も、まるきに行けなかった。
行けない理由はあった。火曜日は残業で遅くなったし、木曜日は同期の片桐に飯に誘われた。でも本当のことを言えば——どんな顔をして会えばいいか、わからなかった。
ナミさんは、あの夜全部話してくれた。
こっちは何も答えていない。
会えば、何か言わなければならない気がした。でも何を言うべきかが、まだ整理できていなかった。好きかどうか、とかそういう話より先に——ちゃんと向き合えているか、自分が問われている気がして。
情けないな、と思った。
二週間、Tシャツを見ていない。
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## 土曜日の商店街
六月の第三週、土曜日。
雨が上がって、久しぶりに青空が出た。洗濯物を干してから、買い物がてら商店街を歩いた。
平日より人が多くて、鮮魚屋のおじさんが威勢よく声を上げていた。豆腐屋の前に小学生が立っていて、揚げ出し豆腐の匂いが風に乗って流れてきた。
この町の、こういう感じが好きだと思った。
角を曲がったとき——見えた。
青果店の前で、トマトを選んでいる後ろ姿。ポニーテール。
今日のTシャツは——
**「雨、終わりましたね」**
「……終わりましたね」
思わず声に出した。
ナミさんが振り返った。
目が合った。
一秒、二秒。
ナミさんが先に口を開いた。
「……久しぶりですね」
「二週間ぶりです」
「数えてたんですか」
「……なんとなく」
ナミさんは手のトマトを視線で確認してから、またこちらを見た。表情は読みにくいけど、怒っているわけじゃなさそうだった。
「まるき、来なかったですね」
「残業とか、色々あって」
「そうですか」
嘘とも本当ともつかない返事に、ナミさんは何も言わなかった。ただ静かに、次のトマトを手に取った。
「少し、話せますか」
僕が言うと、ナミさんは少し間を置いてから「……はい」と答えた。
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## 商店街の外れ、ベンチで
商店街の端に、小さな公園がある。
滑り台とベンチだけの、こじんまりした場所。昼間は子供が遊んでいるけど、今はほとんど人がいなかった。僕たちはベンチに並んで座った。ナミさんはトマトの入った袋を膝の上に置いた。
どこから話せばいいか、少し考えた。
「あの夜、ちゃんと返事できなくてすみませんでした」
「……謝らなくていいです」
「でも、言いたかったことがあって」
ナミさんは前を向いたまま、「……聞きます」と言った。
僕は少し深呼吸をした。
「第三中のこと、正直全然覚えてないんですよ。図書室も、ベンチも、本を渡したことも」
「……知ってます」
「それが、なんかずっと引っかかってて」
「……別に、責めてないですよ。一万人近くいたんですから」
「わかってるんですけど」
僕は膝に肘をついて、少し前かがみになった。
「ナミさんのことが見えてなかった過去は変えられない。でも——今は、見えてます」
風が吹いて、ナミさんの前髪が少し揺れた。
「Tシャツの文字じゃなくて、ナミさん自身が」
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## Tシャツじゃなくて、あなたを見ている
ナミさんは少しの間、黙っていた。
膝の上の袋を、両手でそっと握った。
「……最初は、Tシャツしか見てなかったじゃないですか」
「そうですね」
「コンビニで笑って、スーパーで声かけて、まるきで話して。全部、Tシャツがきっかけで」
「否定できないです」
「じゃあ——」
ナミさんが、初めてこちらに顔を向けた。
「Tシャツがなかったら、気づいてもらえなかったと思いますか」
ちゃんと考えた。
正直に言えば、コンビニで出会ったあの夜、Tシャツがなければ通り過ぎていたかもしれない。スーパーで声をかけたのも、あの文字があったからだ。
でも——
「わからないです。でも、話してみて、波長が合うと思ったのはTシャツのせいじゃない」
ナミさんが少し目を細めた。
「まるきで笑ってるナミさんとか、キャベツの話に付き合ってくれるナミさんとか、そういうのが好きで——また会いたいと思ってた。それは本当です」
言いながら、ちゃんと伝わってるかどうか不安だった。
うまい言葉じゃない。でも、これが正直なところだった。
ナミさんは少しだけ視線を落として、それからまた前を向いた。
「……Tシャツ、これからも着ますよ」
「着てください。楽しみにしてるので」
「ツッコミ要員として?」
「それだけじゃないです」
ナミさんが、小さく笑った。
今まで見た中で、一番素直な笑い方だと思った。
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## 答えは、文字じゃなくていい
しばらく、二人でベンチに座っていた。
公園の外を、自転車が一台通り過ぎた。どこかの家から、昼ごはんの匂いがしてきた。
「聞いていいですか」
ナミさんが言った。
「どうぞ」
「……怖くなかったですか。あんな話、急にされて」
「怖くはなかったです。びっくりはしたけど」
「引かなかったんですか」
「引いてたら、今日ここに来てないですよ」
ナミさんはそれを聞いて、少し黙った。
「……ずっと、怖かったんです」と言った。「話したら、引かれると思ってた。でも話さないままでいるのも、なんか違うと思って」
「あのTシャツが、全部言ってくれましたよね。『思い出しましたか?』って」
「……言わせました、Tシャツに」
「ずるいですね」
「……少しだけ」
また笑った。
僕も笑った。
それから少しだけ迷って——隣に座るナミさんの方を、ちゃんと向いた。
「付き合ってください」
Tシャツの文字でも、回り道でもなく。
ナミさんが、今度は笑わなかった。
少しだけ目を丸くして、それからゆっくりと目を伏せた。
「……はい」
小さな声だったけど、ちゃんと聞こえた。
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## 新しい日常
それから、少しだけ色々が変わった。
変わったといっても、劇的なことは何もない。まるきに一緒に行く回数が増えた。土曜日に商店街を一緒に歩くようになった。それくらいの、地味な変化だ。
でも——同じTシャツを見ても、意味が違って見えるようになった。
ある日の「集中力ゼロ」は、その日の午前中に在宅の仕事で詰まっていたからだと知っていた。「今日は魚の気分」は、前日にまるきで肉定食を食べたからだとわかった。
Tシャツが、記号から言葉に変わった気がした。
ナミさんに話したら「……大げさです」と言われた。でも少し嬉しそうだった。
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## エピローグ:幸せなら手をたたこう
七月の最初の土曜日。
梅雨が明けて、急に夏になった。商店街に七夕の飾りが出て、風に揺れていた。
隣を歩くナミさんのTシャツには——
**「幸せなら手をたたこう」**
僕は三秒見てから、言った。
「それ、たたくんですか。今」
「……状況によります」
「今は?」
ナミさんが少し間を置いた。
それから、ぱん、と一回だけ、手をたたいた。
「……一回でいいんですか」
「十分です」
商店街の飾りが、風に揺れた。
鮮魚屋のおじさんが「いらっしゃい」と声を上げて、豆腐屋の前に猫が座っていた。
僕たちは並んで、いつもの道を歩いた。
特別なことは、何もない。
でも——それで十分だと思った。




