第三章:定食屋のカウンターと、縮まる距離
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## 定食屋「まるき」との出会い(または、自炊の完全敗北宣言)
五月になった。
キャベツは、ついに限界を迎えた。
冷蔵庫を開けるたびに主張してくる存在感に耐えきれず、僕はようやくキャベツを処分した。合掌。四月中旬から約三週間、一度も包丁を入れてもらえなかった彼の冥福を祈る。
そして僕は決意した。
自炊という幻想を、いったん手放そう。
コンビニ飯でも、スーパーの弁当でもなく——もう少しだけ、ちゃんとしたものが食べたい。でも作る体力はない。その二つの要求を同時に満たせる場所を探して、僕は商店街をぶらついた。
見つけたのが、定食屋「まるき」だった。
昭和から時間が止まったような外観。引き戸を開けると出汁の匂いがする。カウンター席が六つ、小上がりにテーブルが二つ。壁に手書きのメニューが貼ってあって、日替わり定食が七百五十円。
完璧だった。
「いらっしゃい」
奥から顔を出したのは、六十代くらいのおじさんだった。エプロンをして、愛想はないが声は温かい。
僕はカウンターの端に座って、日替わり定食を頼んだ。
それが、まるきに通うようになったきっかけだった。
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## 五月の第二週、木曜日
その日も、仕事終わりにまるきへ寄った。
暖簾をくぐって、引き戸を開ける。カウンター席を見渡して——
固まった。
カウンターのちょうど真ん中に、彼女が座っていた。
ポニーテール。透明感のある横顔。そして今日のTシャツは——
**「栄養バランス重視」**
定食屋で「栄養バランス重視」。それは正しい。正しいんだけど、筆文字でわざわざ胸に書いてくる必要はどこにもない。
「いらっしゃい、兄ちゃん。どこでも座って」
おじさんの声で、我に返った。
空いているのは、彼女の隣だけだった。
一瞬だけ迷って——迷ったふりをして、僕はその席に座った。
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## 隣の席は、思ったより近かった
注文を済ませて、水を飲んだ。
彼女はすでに食事が来ていて、黙々と焼き魚を食べていた。横顔は穏やかで、表情はよく読めない。気づいているのかいないのか。
声をかけるか、かけないか。
スーパーのときは勢いで声が出た。でも今は隣に座っていて、距離が近すぎて、逆に言葉が出てこない。完全に矛盾している。
なんか言えよ、と自分に思う。
でも何を言う。「また会いましたね」か。それは普通すぎる。「Tシャツ、今日も面白いですね」か。それはたぶん正解に近いけど、なんか軽い。
そうやって葛藤していたら、彼女の方から口を開いた。
「……スーパーの人、ですよね」
声は低めで、少し落ち着いた感じがした。
「あ——はい、そうです」
「Tシャツ、覚えてくれてたんですね」
それだけ言って、また焼き魚に視線を戻した。
別に責めているわけじゃなくて、ただ確認しているだけみたいな、そういうトーンだった。
「覚えてた、というか……毎回違うじゃないですか。気になって」
「そうですか」
短い返事。でも否定もしない。
僕の定食が来て、しばらく二人で黙って食べた。
沈黙が、そんなに嫌じゃなかった。
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## 話してみたら、波長が合った
最初に話題を作ったのは、Tシャツだった。
「今日の『栄養バランス重視』って、意識してるんですか」
「……一応」
「定食、正解ですよね。完璧に栄養バランス重視な選択だ」
「そうなんです」
彼女が、ちょっとだけ笑った。
それが嬉しくて、僕は調子に乗って続けた。
「でも以前の『お酒がガソリン』は、栄養バランス的にどうなんですか」
「……あれは、そういう時期だったので」
「どういう時期なんですか、それ」
「色々あって」
また短い。でも今度は、口元が少し緩んでいた。
それから、なんとなく話が続いた。
彼女——ナミさん、と名乗った——は、この町の出身ではなく、去年の秋ごろに越してきたらしい。今はいくつかの個人商店でアルバイトをしながら、在宅の仕事もしているという。
「この町、住みやすいですよね」と僕が言うと、「静かで、好きです」と返ってきた。
「仕事は、どうですか」とナミさんが聞いてきた。
思ってもみない質問で、一瞬詰まった。
「……正直、まだよくわからないです。忙しいのか忙しくないのかも、自分がちゃんとやれてるのかも」
「そういうもんじゃないですか、最初は」
「ナミさんは、仕事慣れてる感じがしますよね」
「慣れてるというか……人に合わせるのは、得意なので」
さらっと言ったけど、どこか含みがあるような気がした。
人に合わせるのが得意、か。
Tシャツで自己主張しまくってる人が言う言葉にしては、なんか不思議だと思った。
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## 聞き上手すぎる人の、少し不思議なところ
気づいたら、一時間近く話していた。
ナミさんは聞き上手だった。相槌が絶妙で、質問のタイミングが自然で、話しているうちに気持ちがほぐれていく感じがした。仕事の愚痴も、アパートの壁の薄さも、キャベツの話も——気がついたら全部しゃべっていた。
「キャベツ、三週間ですか」
「はい」
「……がんばりましたね、キャベツ」
「そうなんですよ。がんばったのはキャベツなんですよ」
ナミさんがまた笑った。さっきより少し大きく。
その笑顔を見て、僕は思った。この人と話しているの、楽しいな、と。
でも同時に、ひとつ引っかかることがあった。
仕事の話をしていたとき——僕が「エクセルの集計が苦手で」と言ったら、ナミさんが「ショートカットキー、使ってますか」と聞いてきた。それ自体は普通の会話だ。でも次の瞬間、こう言った。
「……ハルキさんって、効率より、手順を確認したいタイプですよね」
名前は、さっき名乗った。でも——
なんで、それがわかるんだろう。
会って話したのは、今日が初めてのはずなのに。
その違和感を言葉にする前に、おじさんが「お会計どうぞ」と伝票を置いていった。
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## 帰り道、商店街の出口で
二人でまるきを出た。
夜の商店街はひとが少なくて、街灯がぽつぽつとオレンジ色に光っていた。
「今日、話せてよかったです」
僕がそう言うと、ナミさんは少し間を置いてから「……わたしも」と言った。
「また来ますよ、まるき」
「そうですか」
「ナミさんも、よく来るんですか」
「……たまに」
目が合った。
彼女は視線をすっと外して、「じゃあ」と言って逆方向に歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕はさっきの違和感をもう一度思い出した。
効率より手順を確認したいタイプ。
なんで知ってたんだろう。
まあ、なんとなく当たってただけか——そう結論づけて、僕はアパートへの道を歩き出した。
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夜風が、少し温かくなっていた。
五月だな、と思った。
次にまるきに行くのは、いつにしようか。そんなことを考えながら、足取りはどこか軽かった。




