第二章:レジ横の勇気と「ありがとうございます」
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## 我慢の限界は、スーパーのカレーコーナーで来た
人間には、限界というものがある。
仕事の限界、自炊の限界、「明日こそキャベツを使う」という自分への嘘の限界——そういう話ではなく、今日はもっとシンプルな限界の話だ。
四月も後半に差し掛かった、水曜日の夜。
残業が伸びて、帰宅したのは九時を過ぎていた。コンビニは通り道にあるけれど、なんとなく足が向かなかった。一週間、毎日コンビニ飯だった。さすがに、もうちょっとちゃんとしたものが食べたい。そういう、か細いプライドが残っていた。
だから駅前のスーパーに寄った。
夜の九時を過ぎたスーパーは、照明が少し暗くなって、お惣菜コーナーに値引きシールが並びはじめる時間帯だ。疲れたサラリーマンと、買い忘れを思い出した主婦と、僕みたいな新社会人が、互いに目を合わせずカゴを持って歩いている。
今日は何にしよう。
カレーのルーを買って、ちゃんと作るか——いや、玉ねぎを炒める元気がない。じゃあレトルトでいいか。でも米を炊くのも面倒だ。
そうやってぐるぐると考えながら、加工食品の棚の前を歩いていたとき。
視界の端に、見慣れた筆文字が飛び込んできた。
**「今日のご飯はカレー」**
「……っ」
笑いが、口から出そうになった。
いや待て。待ってくれ。カレーコーナーの前で「今日のご飯はカレー」って、それはもうTシャツじゃなくて予告状じゃないか。しかも筆文字で。誰に報告してるんだ。
こらえようとして——こらえきれなかった。
「ふっ」
声が、漏れた。
完全に、漏れた。
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## 人生で一番短い、自己紹介みたいな会話
彼女が、こちらを見た。
透明感のある顔が、少し驚いたように目を丸くしていた。当然だ。突然隣のサラリーマンが笑い出したのだから。
まずい、と思った。
でも、もっとまずいことが起きていた。
僕の口が、勝手に動いていた。
「あの——そのTシャツ、どこで買ってるんですか」
言ってから、頭が真っ白になった。
何を言っているんだ、僕は。初対面の女性に、スーパーの加工食品コーナーで、いきなりTシャツの購入先を聞くやつがどこにいる。完全に不審者の入口だ。撤回したい。でも言葉は空気になってしまったし、彼女はもう僕の顔を見ている。
逃げ場がなかった。
彼女は一瞬、何かを考えるように視線を落とした。それから——少しだけ、笑った。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、棚からカレーのルーを一箱取り、カゴに入れて歩いていった。
足音が遠くなる。
僕はしばらく、加工食品の棚の前で立ち尽くしていた。
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## 帰り道、頭の中はフル回転だった
レジを通って、袋を持って、スーパーを出た。
夜風が少し冷たかった。
……今のは何だったんだ。
頭の中で、さっきの十秒間をリプレイした。Tシャツに笑って、声をかけて、「ありがとうございます」と言われた。それだけだ。名前も聞いていない。何者かもわからない。会話と呼ぶには短すぎる、ただの十秒。
なのに。
「……なんで、嬉しそうだったんだろ」
独り言が、夜の商店街に溶けた。
怪訝そうな顔をされると思っていた。無視されるか、会釈だけで終わるか。それが普通だと思っていた。
でも彼女は驚かなかった。
まるで——声をかけられることを、どこかで待っていたみたいに。
そんな気がして、それが妙に頭から離れなかった。
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## 翌日、仕事中も頭を離れなかった話
木曜日の午前中、僕はエクセルのシートを前にしながら、まったく別のことを考えていた。
あの「ありがとうございます」は、お世辞だったのか。それとも本当に嬉しかったのか。声のトーンはどっちだった。ちょっと嬉しそうだったと思う。でも、Tシャツを褒められ慣れていて、社交辞令で言い慣れているだけかもしれない。
「神代くん、その集計、終わった?」
「あ——はい、今やります」
先輩の声に、我に返った。
画面には、一行も入力されていなかった。
まずい。本当にまずい。新社会人が、仕事初月から謎の女性のことを考えて手が止まるとか、笑えない話だ。
でも夕方、帰り支度をしながらまた考えていた。
明日、また会えるだろうか。
次は何の文字を着ているだろうか。
今度は——もう少しだけ、ちゃんと話せるだろうか。
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## 金曜日の踏切待ち、三十秒の答え合わせ
金曜日の夕方、踏切の前で彼女を見つけた。
遮断機が降りていて、電車が来るまでまだ少しある。彼女は列の少し前に立っていた。後ろ姿。ポニーテール。そして今日のTシャツ——
**「週末、待ってました」**
「……それは全員の気持ちだろ」
思わずまた、口の端が上がった。
共感性が高すぎる。筆文字にする必要はないが、気持ちはよくわかる。四月の終わりの金曜日、週末を待っていない社会人はいない。
遮断機が上がった。
人の流れに乗って歩き出す。彼女との距離は、三メートルほど。声をかけるには、少し遠い。
今日はいいか——そう思いかけたとき、彼女が振り返った。
目が、合った。
一秒。
彼女は何も言わなかった。でも、口元が——ほんの少しだけ、動いた。
笑ったのか、それとも気のせいか。判断する前に、彼女は前を向いて歩いていった。
僕はしばらく、踏切の跡地に立ち尽くしていた。
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名前は、まだ知らない。
でも確かなことがひとつあった。
次に会ったとき——今度こそ、もう少しだけ話したい。
そう思っている僕は、たぶん、もうだいぶやばかった。




