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第9話 朝食

予約には、朝食なしと書かれていた。


名前は川瀬佳代。五十代くらいだろうか。一人で二泊の予約だった。


夕方に着き、荷物を三号室に置くと、近くを散歩してくると言って出かけた。


「湖まで、歩けますか」

「十五分くらいです。うちは湖畔じゃないので」

「それくらいがいいです」


川瀬は小さな鞄だけを持って出ていった。


戻ってきたのは暗くなってからだった。夕食は外で済ませたらしい。直人が玄関で「おかえりなさい」と言うと、川瀬は少し驚いた顔をした。


「ただいま、でいいんでしょうか」

「もちろん」

「じゃあ、ただいま」


川瀬は笑って、階段を上がった。



*


翌朝、直人が食堂の電気をつけると、窓際に川瀬が座っていた。まだ六時前だった。カーテンの隙間から入る光が、テーブルの端まで届いている。


「おはようございます。早いですね」

「起こしちゃいました?」

「いや、いつもこれくらいです」


直人はコーヒー豆の袋を開けた。


「コーヒー、飲みます?」

「いただいていいですか。朝食、頼んでないのに」

「コーヒーは別」

「別料金ですか」

「いや、そこまで考えてなかった」


川瀬は声を出して笑った。


湯を沸かしているあいだ、川瀬は窓の外を見ていた。ここから富士山も見えるが、川瀬は、県道を走る車が通り過ぎていくのを、ただ眺めているように見えた。


「朝ごはん、食べないんですか」


直人が尋ねると、川瀬は窓から目を離した。


「普段は食べます」

「そうなんだ」


直人はそれ以上聞かず、カップを二つ出した。


七時を過ぎると、一号室の客が下りてきた。直人はパンを焼き、オムレツとサラダを皿にのせた。川瀬はコーヒーを飲み終えると、席を立った。


「ごちそうさまでした。出かけてきます」

「今日も湖ですか」

「今日はこっちに行ってみます」


川瀬は玄関で鞄を持ち、振り返った。


「どこに着くか分からないけど」

「十分くらいでコンビニに着きます」

「それは安心」


直人はドアが閉まるのを見てから、食堂に戻った。川瀬のカップを片づけ、一号室の客にパンのおかわりを出した。


*


昼過ぎ、川瀬は紙袋を提げて戻ってきた。


「コンビニ、ありました」

「よかった」

「でも、そこでは買わなかったんです」


紙袋には、小さなパンが二つ入っていた。その先を歩いているうちに、パン屋を見つけたのだという。


「食堂、使ってもいいですか」

「どうぞ」


川瀬は窓際の席に座り、紙袋を開いた。直人が皿を一枚持っていくと、川瀬は礼を言ってパンを移した。四角いパンには胡桃が入っていた。


「結局、朝ごはんを買いました」

「もう昼ですけどね」

「ほんとだ」


川瀬はパンを半分に割った。食べる前に、もう一度紙袋をのぞいた。


「残りは明日にしようと思ったんですけど、おいしそうで」

「明日になったら、また買いに行けばいい」

「そうですね」


少しして、川瀬が言った。


「前は、朝だけの喫茶店をやってたんです」


直人はカウンターの中で、洗った皿を拭いていた。


「朝だけ?」

「六時から十一時まで。コーヒーと、トーストと、卵くらい」

「うちと似てますね」

「こっちは四号室まであるでしょう。うちは席が六つだけでした」

「ずいぶん早くから仕込むんですね」

「五時には店を開けてたから。最初のお客さん、必ず六時より前に来るんです。何度言っても」


川瀬は胡桃のパンを一口食べた。


「もうやめたんですか」

「先月。二十三年やって、やめました」


直人は皿を棚に戻した。川瀬はパンを食べながら、窓の外を見ていた。


「今朝も四時半に目が覚めて。何を仕込まなきゃいけないんだっけ、って考えてました」

「ここでは何も」

「そう。だから下りてきたんです」


*


その午後、川瀬はまた出かけた。今度は湖の方へ歩いていった。


夕方に戻ると、玄関で「ただいま」と言った。直人が「おかえりなさい」と返すと、川瀬は昨日より自然に中へ入ってきた。


「屋上、行ってもいいですか」

「どうぞ。階段、最後だけ急なので気をつけて」


川瀬は部屋に戻らず、そのまま屋上へ上がった。


直人は食堂の掃除を終えてから、乾かしていた椅子を取りに屋上へ行った。川瀬は手すりの近くに立っていた。小学校の屋根の向こうに富士山が見え、反対側には建物の向こうに湖が光っていた。


「富士山も湖も見えるんですね」

「暖かい時期は、ここで朝ごはんを出すんです」

「いいですね」


川瀬はしばらく湖を見ていた。


「明日の朝も、上がっていいですか」

「もちろん」


直人は椅子を二脚重ねた。川瀬はしばらく景色を見てから、「寒くなる前に下ります」と言った。


*


二日目の朝も、川瀬は六時前に食堂にいた。


昨日使ったカップを、窓際のテーブルに置いている。


「勝手に出しちゃいました」

「洗うのは俺だから」


直人がカップを取ると、川瀬は手を引っ込めた。


「すみません。つい」

「冗談です」


直人はコーヒーを注いで、カップを返した。


「屋上、行かないんですか」

「起きたときは、まだ暗かったから。コーヒーを飲んでから行きます」


直人も自分のカップを持って、向かいに座った。朝食の準備まで、少し時間がある。


「店をやめてから、旅行は初めてですか」

「初めてです。休むって決めたのに、家にいると店の前を通っちゃうんですよ」

「近いんですね」

「家の一階でしたから」


川瀬はカップを持ち上げた。


「次に入る人が、もう内装を変えてます。通るたびに、どこまで進んだか見てしまって」

「何の店になるんですか」

「喫茶店です」


直人は川瀬を見た。


「また、朝から?」

「それは知らない。見に行ってないので」

「前を通るんですよね」

「中には入らないんです」


川瀬はコーヒーを一口飲んだ。


「私がつけた棚が、昨日なくなってました」


直人は何と言えばいいか分からず、自分のカップに口をつけた。川瀬も、その続きを話さなかった。


七時が近づき、直人は席を立った。冷蔵庫から昨夜作ったベシャメルソースを出すと、川瀬がカウンター越しに尋ねた。


「今日の朝食、何ですか」

「クロックムッシュです。あと、サラダとりんご。スープも」

「おいしそう」


川瀬は自分のカップを見た。


「今から一人分、増やせますか」

「増やせますよ」

「昨日のパン、夜に食べちゃって」

「おいしかった?」

「うん」


直人はパンをもう二枚取り出した。片方にソースを塗り、ハムとチーズを挟む。上にもソースとチーズをのせて、オーブンに入れた。


ほかの客が下りてくる前に、焼き上がった皿を窓際へ運んだ。川瀬は表面のチーズを見て、少し笑った。


「お店では、こういうのも出してたんですか」

「いいえ。うちはトーストと卵くらい」


川瀬はナイフを入れ、一口食べた。


「作ってもらう朝ごはん、久しぶりです」

「ソース、ちょっと多かったかな」

「これくらいがいいです」


直人はカウンターに戻り、次のパンをオーブンに入れた。


食べ終えると、川瀬は皿を持ってきた。


「ごちそうさま。あとで屋上に行ってきます」

「今日は富士山、よく見えますよ」

「昨日も見ました」

「朝はまた違います」


川瀬は皿を直人に渡した。


「じゃあ、見てきます」


チェックアウトのとき、川瀬は玄関でスカーフを巻きながら、「今度は最初から朝食を頼みます」と言った。


「その日の朝でも大丈夫ですよ」

「それだと、また迷うから」


川瀬は鞄を肩にかけた。


「お世話になりました」

「ありがとうございました」


ドアが閉まり、足音が県道の方へ遠ざかった。


直人は食堂に戻った。窓際のテーブルには、カップの丸い跡が残っていた。布巾で拭くと、すぐに消えた。


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