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第8話 覚えていなかった人

予約の名前を見たとき、直人は手を止めた。


柴田和彦。


同姓同名かもしれないと思った。


年齢は五十六歳。


住所は神奈川県。


たぶん、本人だった。


直人は予約画面をもう一度見た。


一泊。大人一名。


特記事項なし。


柴田とは二十五年会っていなかった。


昔、直人が国際協力の仕事を始めて間もないころ、ネパールの案件で一緒になった人だった。


直属の上司ではない。


普段、一緒に働いていたわけでもない。


それでも、直人にとっては忘れられない人の一人だった。


初めてのネパール出張で、何をしていいのかもよく分からなかった直人を、柴田は何度も助けてくれた。


会議の前には、直人が作った資料を直してくれた。


英語の議論についていけず、何も言えないまま会議が終わりそうになったときには、休憩時間に、


「全部分かろうとしなくていい。言いたいことをひとつ言えばいい」


と言った。


直人は、その言葉をずっと覚えていた。


柴田本人は、たぶん忘れているだろうと思った。


言ったことまで覚えているとは思っていない。


それでも、自分のことくらいは覚えているだろう。


そう思っていた。



*


予約の日。


直人はいつもより少し早く、玄関の外を掃いた。


別に柴田が来るからではない。


十二月は落ち葉が少ない。


掃くものも、ほとんどなかった。


午後四時を少し過ぎたころ、玄関が開いた。


「こんにちは」


声を聞いて、直人はすぐに分かった。


少し白髪が増えていた。


眼鏡も変わっていた。


けれど、柴田だった。


「こんにちは」


直人は笑った。


「柴田さんですよね」

「はい」


柴田も笑った。


「予約してた柴田です」


その言い方で、直人は少しだけ引っかかった。


「お久しぶりです」


と言った。


柴田の顔から、笑みが少し消えた。


「……え?」


ほんの一秒だった。


でも、その一秒で分かった。


覚えていない。


直人は笑ったまま名乗った。


「昔、仕事でご一緒したことがあって」

「ああ」


柴田は直人の顔を見た。


「そうでしたか」

「ネパールです」

「ネパール」


柴田は少し考えた。


「いつごろです?」

「二十五年くらい前です」

「ああ、なるほど」


もう一度、直人の顔を見た。


「すみません。顔が変わりました?」

「たぶん、だいぶ」


直人は笑った。


髪も減った。


体重も増えた。


そもそも二十五年経っている。


柴田は申し訳なさそうに笑った。


「いやあ、すみません。昔の仕事、いろんな人と一緒になったから」

「ですよね」


直人は宿泊者カードを差し出した。


「ここだけお願いします」


柴田が名前を書いた。


直人は、その字を見ていた。


昔と同じ字だった。


柴田は一号室に泊まることになった。


角部屋だった。


南の窓からは、小学校の屋根越しに富士山が見える。


北の窓からは、民家の向こうに湖が見えた。


「いい部屋ですね」

「この宿で一番いい部屋です」

「そうなんですか」

「たまたま空いてたので」

「得しました」


柴田は南の窓から富士山を見た。


「すごいな」


直人も隣に立った。


「こんなところで宿やってるんですね」

「はい」

「昔からやりたかったんですか」


直人は少し考えた。


「どうでしょう」

「どうでしょうって」


柴田が笑った。


「いろいろやって、ここに来ました」

「へえ」


柴田はそれ以上聞かなかった。


夕方、柴田は湖の方へ散歩に出た。


戻ってきたのは六時半ごろだった。


「寒いですね」


玄関を開けるなり言った。


「十二月ですから」

「湖まで行ったら、風がすごくて」

「ここ、湖畔じゃないんですよ」

「そうなんですか」

「坂を下りて十五分くらい歩いたでしょう」

「歩きました」


柴田は笑った。


「でも、そのくらい離れてる方が静かでいいですね」


直人は、


「ありがとうございます」


と言った。


夕食は外で済ませるというので、近くの店を何軒か教えた。


柴田は七時すぎに出ていった。


直人は共有スペースで帳簿をつけた。


数字を打ち込みながら、昔のことを思い出した。


ネパールで最初に柴田と会った日のこと。


空港から市内へ向かう車の窓から、道路脇の店を眺めていたこと。


会議室で英語の議論についていけず、誰が何を言っているのか追いかけるだけで精いっぱいだったこと。


休憩になって、柴田に言われた。


全部分かろうとしなくていい。


言いたいことをひとつ言えばいい。


そのあと直人は、次の会議で一度だけ発言した。


何を言ったのかは、もう覚えていない。


十時前、柴田が戻ってきた。


「飲みすぎました」

「一人で?」

「店の人と話してたら」

「それは飲みますね」


柴田は共有スペースの椅子に座った。


直人は水を出した。


「ありがとうございます」


柴田は半分くらい一気に飲んだ。


「しかし、びっくりしました」

「何がです?」

「昔一緒に仕事してた人が宿やってるとは思わなかった」

「僕も、柴田さんが予約してくるとは思いませんでした」

「名前で分かったんですか」

「分かりましたよ」


柴田は少し申し訳なさそうな顔をした。


「すみませんね。僕は全然分からなくて」

「いいですよ」

「ほんと、昔のこと覚えてなくて」

「そういうもんですよ」


直人は言った。


けれど、少しだけ嘘だった。


そういうものだとは思っていなかった。


柴田は水を飲んだ。


「ネパールって、何の案件でしたっけ」


直人は少し驚いた。


「トンネルです」

「ああ」


柴田はしばらく考えた。


「山を抜くやつ?」

「そうです。インドに向かう山道を、トンネルで抜くやつです」

「ああ、物流の」

「そうです」


柴田はうなずいた。


「そうか。あれか」


ようやく、何かがつながったらしい。


「思い出しました?」


直人が聞いた。


柴田は少し困った顔をした。


「正直に言っていい?」

「どうぞ」

「案件は思い出した」


直人は笑った。


「僕は?」

「もうちょっと時間ください」


二人で笑った。


不思議と、さっきより気にならなかった。


「僕、柴田さんのこと結構覚えてるんですよ」


直人が言った。


「ほんと?」

「初めての出張で、何にも分からなくて」

「ああ」

「会議の前に、僕が作った資料を直してもらったり」


柴田は首をかしげた。


「そんなことした?」

「しました」

「全然覚えてないな」

「でしょうね」


直人は笑った。


「英語の議論についていけなくて黙ってたら、『全部分かろうとしなくていい。言いたいことをひとつ言えばいい』って言われました」


柴田は目を丸くした。


「僕が?」

「柴田さんが」

「いいこと言うな、昔の俺」


直人は吹き出した。


「自分で言います?」

「今の俺には言えないね」


柴田も笑った。


しばらくして、柴田は水の入ったグラスを見ながら言った。


「でも、そういうのあるよね」

「何がです?」

「自分は覚えてないのに、相手は覚えてるっていうの」

「ありますね」

「怖いね」

「怖いですか」

「怖いよ。変なこと言えないじゃん」


直人が笑った。


「まあでも」


直人は言った。


「僕は助けてもらった方ですから」


柴田は少し黙った。


「そういうの、自分では分かんないもんだな」

「そうですね」

「君だって、たぶんあるよ」

「何がです?」

「自分が忘れてる人に、覚えられてること」


直人は答えなかった。


それは、ありそうだった。


教師をしていたころ。


毎年、何十人もの生徒がいた。


何年も続ければ、何百人にもなった。


直人は全員の顔を覚えているつもりでいた。


でも、たぶん覚えていない。


忘れてしまった名前もある。


話した内容も。


本人にとっては大きな出来事だったのに、直人には何気ない一日だったこともあるかもしれない。


「嫌ですね」


直人が言った。


「何が?」

「僕も忘れてると思うと」


柴田は笑った。


「お互い様だよ」

「そんなもんですか」

「そんなもんだと思う」


柴田は立ち上がった。


「寝ます」

「はい」

「明日、朝食七時からでしたっけ」

「七時からです」

「じゃあ八時くらいに」

「どうぞ」


階段の前で、柴田が振り返った。


「でも、来てよかったよ」

「何がです?」

「思い出せて」


直人は少し待った。


「案件を?」


柴田は笑った。


「それも」

「じゃあ、もう一個は?」

「もうちょっと思い出してから言うよ」


柴田は階段を上がっていった。



*


翌朝。


八時を少し過ぎて、柴田は食堂へ下りてきた。


窓の外はよく晴れていた。


小学校の屋根の向こうに、富士山が大きく見えた。


「すごいね」


柴田が言った。


「昨日も見ましたよ」

「朝は違う」

「そうですね」


直人はパンと卵を出した。


コーヒーを淹れる。


柴田は富士山を見ながら朝食を食べた。


チェックアウトのとき、柴田は玄関で荷物を持ちながら言った。


「また来ますよ」

「ありがとうございます」

「次は忘れないから」


直人は笑った。


「それ、次まで覚えてます?」


柴田も笑った。


「自信ないな」

「じゃあ、予約の備考欄に書いてください」

「何て?」

「昔、ネパールで一緒に仕事した柴田ですって」

「覚えてたら書くよ」


二人で笑った。


柴田は玄関を出た。


「じゃあ、また」

「お気をつけて」


柴田は県道を駅の方へ歩いていった。


直人は玄関を閉めた。


少し寂しかった。


それは、やっぱりそうだった。


自分にとって大切な記憶が、相手にとってはそうではなかった。


そのことは、思っていたより少し寂しかった。


でも、柴田が覚えていなかったからといって、あのとき助けてもらったことがなくなるわけではない。


資料を直してもらったことも。


会議の途中で言われた言葉も。


直人の中には残っている。


そして、きっと逆もある。


直人がもう名前も思い出せない誰かが、直人との会話を覚えている。


昔、何気なく言った一言を、まだ持っているかもしれない。


そう考えると、少し怖かった。


でも、少しだけうれしくもあった。


直人はカウンターに戻った。


柴田の宿泊者カードを引き出しにしまう。


二十五年前の記憶に、昨日の一晩が新しく重なった。


直人はその名前をもう一度見てから、引き出しを閉めた。


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