第7話 失敗
その日の最後の客は、夜の九時半を少し過ぎてから来た。
玄関の引き戸が開く音がして、直人がカウンターから顔を上げると、二十代半ばくらいの男が立っていた。
黒いリュックを背負い、紺色のシャツにチノパンを履いている。
旅行者というより、仕事帰りのように見えた。
「こんばんは」
「こんばんは。ご予約の佐伯さんですか」
「はい」
男は小さく頭を下げた。
直人は宿泊者カードを差し出した。
「ここだけお願いします」
男はペンを持ち、名前と住所を書いた。
佐伯祐太。二十六歳。
住所は東京だった。
「観光ですか」
直人が聞くと、祐太は少し考えた。
「……いや」
それから、自分でもよく分からないような顔をした。
「たぶん、違います」
直人はそれ以上聞かなかった。
よりみちには、ときどきそういう客が来る。
どこかへ行きたいわけではない。
何かを見たいわけでもない。
ただ、一晩、いつもいる場所ではないところにいたい。
そういう人がいる。
「二号室です。階段上がって右です」
鍵を渡す。
「朝食は七時から九時半です。お風呂は十時半までです」
「あ、はい」
「夕飯、食べてきました?」
「いえ。でも今日はもういいかなと思って」
直人は一瞬だけ祐太の顔を見た。
「そうですか」
「はい」
祐太は鍵を受け取ると、階段を上がっていった。
直人は宿泊者カードを見てから、引き出しにしまった。
外はもう真っ暗だった。
十二月の河口湖は、昼間でも寒い。日が落ちると、その寒さが一段深くなる。
県道を走る車の音も、夏より遠く聞こえる気がした。
十時前になって、直人が共有スペースの電気を一つ落とそうとすると、階段を下りてくる音がした。
祐太だった。
「まだ大丈夫ですか」
「何がですか」
「ここ、いても」
「もちろん」
祐太は窓際の席に座った。
スマートフォンをテーブルに置いた。
画面が光った。
祐太はそれを見ずに、裏返した。
直人はカウンターの中で、明日の朝に使う豆を量っていた。
「コーヒー飲みます?」
祐太が顔を上げた。
「いいんですか」
「有料ですけど」
祐太が少し笑った。
「じゃあ、お願いします」
直人は豆を挽いた。
湯を沸かし、ドリッパーに少しずつ注ぐ。
「旅行、急に決めたんですか」
直人が聞いた。
祐太は少し考えた。
「決めてないです」
「え?」
「四ツ谷で電車待ってたら、河口湖行きって出てて」
「それに乗った?」
「はい」
「じゃあ予約は」
「電車の中で取りました」
「なかなかですね」
祐太は少し笑った。
直人はコーヒーを前に置いた。
「ありがとうございます」
祐太は一口飲んだ。
しばらくカップを見ていた。
「今日、仕事でミスしたんですよ」
直人はカウンターに布巾を置いた。
「そうなんですね」
「結構でかいやつです」
「はい」
「たぶん会社に損害出ます」
直人は何も言わなかった。
祐太はカップの縁を指でなぞった。
「上司にも話して。月曜、また説明しないといけなくて」
「月曜ですか」
「はい」
「じゃあ今日は金曜か」
祐太が笑った。
「そうですよ」
「曜日の感覚なくなってて」
「宿やってるとそうなるんですか」
「なるときあります」
窓の外を車が一台通った。
ヘッドライトが壁を横切り、すぐに消えた。
「辞めようかなと思ってます」
祐太が言った。
直人はカウンターにもたれた。
「会社を?」
「はい」
「今日のミスで?」
「というか」
祐太は少し考えた。
「もう、無理かなって」
直人はうなずいた。
「そうですか」
「こういうの、向いてないんだと思います」
「何の仕事ですか」
「商社です。小さいところですけど。輸入関係で」
「なるほど」
「数字、一個間違えて」
祐太は苦笑した。
「一個ですよ。一個」
直人は、それを聞いて少し笑った。
「僕もありますよ」
祐太が顔を上げた。
「数字ですか」
「一桁」
「一桁?」
「一桁間違えました」
祐太は直人を見た。
「昔、国際協力の仕事してたんですけど」
「はい」
「海外の事業に使うドルを、あらかじめ決めたレートで買う手続きがあったんです。為替って動くから、先に値段を決めておくんですよ」
祐太がうなずいた。
「その金額を、一桁多く入れました」
一瞬、祐太が黙った。
「……一桁?」
「はい」
「十倍?」
「十倍です」
「やばくないですか」
「やばかったです」
必要のない分までドルを買う約束をしてしまった。
取り消すことはできず、余ったドルは結局、円に戻した。その間に為替が動いた。
「最終的に、為替差損で一千万くらいだったかな」
「一千万?」
祐太が声を上げた。
「たしか、そのくらい」
「めちゃくちゃ怒られました?」
「いや、それが」
直人は少し笑った。
「あんまり怒られなかったんですよ」
「え?」
「僕が入力して、そのあと三人くらいチェックして、みんなハンコ押してたんで」
「全員見逃したんですか」
「そういうことですね」
「それはそれですごいですね」
「なので途中から、もう僕が怒られるとかいう話じゃなくなって」
祐太が笑った。
「課長が上に説明して、再発防止策も課長が作ってました」
「本人、何してたんですか」
「普通に仕事してました」
「普通に?」
「はい」
直人は少し考えた。
「本人だけは、人生終わったと思ってましたけどね」
祐太が笑った。
「そこだけ重いですね」
「そこだけは、かなり」
祐太はしばらく笑っていた。
それから、少し真顔になった。
「そのとき、本当に辞めようと思いました?」
直人は少し考えた。
もう十五年以上前のことだった。
それでも、あの日のことは妙によく覚えている。
書面に書かれた数字。
何度数え直しても変わらない桁数。
自分が入力した金額。
胸の奥が冷たくなった感覚。
何かの間違いであってほしくて、何度も確認した。
もちろん、間違っていたのは自分だった。
「思いましたね」
直人は言った。
「こんなミスする人間は、この仕事やっちゃいけないんじゃないかって」
祐太は黙って聞いていた。
「で、辞めたんですか」
「そのときは辞めませんでした」
「じゃあ、どうしたんですか」
直人は少し考えた。
「次の日も仕事しました」
「それだけ?」
「それだけですね」
祐太が困ったような顔をした。
「なんか、もっとないんですか」
「何がですか」
「そこから立ち直った方法とか」
「ないですね」
直人は言った。
「翌日、出勤したらメールが来てて。また数字入れてハンコ押す書類があって。普通に仕事があったので」
「そんなもんですか」
「そんなもんでした」
祐太はコーヒーを飲んだ。
「でも、一千万ですよね」
「一千万ですね」
「それでも、そのあと普通に働けるんですね」
「働いてました」
「すげえな」
「別にすごくないですよ」
直人はマグカップを流しに置いた。
「辞めるのもありだと思いますけどね」
祐太が顔を上げた。
「え?」
「会社」
「辞めてもいいってことですか」
「それは知りません」
直人は言った。
「佐伯さんの会社ですから」
「ですよね」
「ただ、今日ミスしたことと、その仕事に向いてないことは、たぶん別の話です」
祐太は黙った。
「僕もそのときは、一緒だと思ってましたけど」
「で、違ったんですか」
「十五年くらい経ったら、違う話になってました」
祐太が笑った。
「十五年か」
「長いですね」
「長いっすね」
「月曜までには間に合わないですね」
「全然間に合わないですね」
二人で笑った。
少しして、祐太が言った。
「月曜、会社行けますかね」
直人は祐太を見た。
「僕に聞かれても」
「ですよね」
「行くんですか」
祐太は少し考えた。
「……たぶん」
「そうですか」
時計を見ると、十時半を過ぎていた。
「そろそろ風呂閉めます」
直人が言った。
「あ、すみません」
「いえ」
祐太は立ち上がり、カップをカウンターまで持ってきた。
「ここ、なんで『よりみち』っていうんですか」
突然、聞かれた。
直人は少し考えた。
「まっすぐ行かなくてもいいかなと思って」
「それだけ?」
「まあ、いろいろあります」
「いろいろ」
「はい」
祐太が笑った。
直人も少し笑った。
祐太は階段の前まで行った。
「今日、完全に道間違えた気分だったんですよ」
「仕事ですか」
「人生」
「大きく出ましたね」
「ほんとですよ」
祐太は笑った。
「でもまあ、間違えた道にこういう宿があるなら、悪くないかもしれないです」
直人は返事をしなかった。
そういうことを言われたとき、うまく返す言葉を持っていない。
「おやすみなさい」
と言った。
「おやすみなさい」
祐太が階段を上がっていった。
*
翌朝。
七時を少し過ぎたころ、祐太は食堂へ下りてきた。
昨日より少しだけ、顔がましに見えた。
直人は厚切りのパンを卵液に浸し、バターで焼いた。両面に焼き色がついたフレンチトーストを皿にのせる。
「コーヒー飲みます?」
「お願いします」
直人が豆を挽いていると、祐太が窓の外を見ながら言った。
「富士山、すごいですね」
「今日はよく見えますね」
「昨日、暗くて何も見えなかったんで」
「夜来ましたからね」
小学校の屋根の向こうに、富士山が大きく見えていた。
雪は、昨日より少し下まで降りてきたようにも見えた。
直人はコーヒーを置いた。
「今日、帰るんですか」
祐太は少し考えた。
「まだ決めてないです」
「そうですか」
「もう一泊してもいいですか」
「今日は空いてます」
祐太はコーヒーを飲んだ。
「じゃあ、あとで決めます」
「どうぞ」
祐太はまた窓の外を見た。
湖はここからは見えない。
坂を下りて、十五分ほど歩いた先にある。
よりみちは、湖畔ではない。
直人は空いた皿を下げた。
道を間違えたのかどうかなんて、歩いている最中には分からない。
十五年以上前。
一桁多く入力した数字を見たとき、直人は自分が決定的に道を間違えたと思った。
けれど、そのあとも仕事をした。
別の仕事もした。
仕事を辞めたこともあった。
学校で教師になった。
教師も辞めた。
そして今は、湖から十五分離れた場所で、小さな宿をやっている。
どこからが正しい道で、どこからが間違った道だったのか。
考えてみても、よく分からない。
祐太はまだ窓の外を見ていた。
帰るのか。
もう一泊するのか。
直人は聞かなかった。
コーヒーポットに湯を足した。
八時になれば、次の客が起きてくる。
それで十分だった。




