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第6話 悠介

「先生」


玄関から声がした。


直人は、コーヒーを淹れる手を止めた。宿を始めてから、そう声をかけられたのは初めてだった。


振り返ると、二十代の終わりくらいの男が立っていた。黒いリュックを背負っている。髪は短く、眼鏡をかけていた。


やっぱり、と思った。


予約が入ったときから、名前には見覚えがあった。


田中悠介。


最後に担任したクラスにいた生徒と同じ名前だった。珍しい名前ではない。同姓同名かもしれないと思った。


確かめようと思えば、確かめられた。でも、しなかった。


予約は予約だった。


そして今、目の前にいるのは、やっぱりあの悠介だった。


「久しぶり」


悠介は笑った。


「久しぶりです、先生」

「その先生っていうの、やめない?」

「無理ですよ」


悠介はリュックを下ろした。


「一人?」

「はい。一人旅」

「富士山?」

「いや」


悠介は少し考えた。


「なんとなく来ました」


なんとなく。


宿をやっていると、ときどきそういう客がいる。


理由のない旅行というものは、たぶんない。ただ本人がまだ言葉にしていないだけだ。直人はそう思っている。


もちろん、客にそれを説明したりはしない。


「部屋、二号室」

「はい」

「荷物置いたら、コーヒー飲む?」

「飲みます」


悠介は階段を上がっていった。


直人は残りの豆を挽いた。


十五歳の悠介と、コーヒーを飲んだことはなかった。



*


悠介はコーヒーをブラックで飲んだ。


「先生、変わんないですね」

「十年以上経ってるけど」

「そういう意味じゃなくて」


直人は続きを待った。


悠介はカップを両手で持った。


「なんか、人の話聞くときの感じ」


窓の外に富士山が見えていた。空気が澄んで、雪の輪郭までよく見えた。


「みんな、どうしてる?」


直人が聞いた。


「NoLimitですか?」


この言葉が出てくるとは思っていなかった。


直人が最後に担任した三年生のクラスだった。学級目標を決めるとき、誰かが言い出した。


No Limit。


限界を決めない。


中学生が好きそうな言葉だった。直人も気に入っていた。


「何人かは今でも会いますよ」

「へえ」

「結婚したやつもいるし。子どもいるやつもいます」

「そりゃそうか」

「先生のとこ、三人でしたよね」

「そう。三人」

「学校でよく話してましたもんね」

「たまにね」

「めちゃくちゃしてましたよ」


悠介は笑った。


「今でも先生の話、たまに出ますよ」

「俺の?」

「先生あのときこんなこと言ってたよな、とか」


直人はコーヒーを飲んだ。


自分でも、教師だったころのことはよく覚えている方だと思う。それでも、卒業生と話していると、ときどき驚くことがある。


自分では忘れていたような、どうでもいい一言を、彼らが覚えている。


「俺、三年のとき、一回学校来なくなったじゃないですか」

「三学期ね」


卒業まで、あと一か月ほどだった。


悠介は三日続けて休んだ。電話をしても、母親は体調不良だと言った。四日目の放課後、直人は家まで行った。


「先生、家まで来ましたよね」

「行ったね」


悠介はカップを置いた。


「あれ、俺、めちゃくちゃ嫌だったんですよ」


直人は悠介を見た。


「そうだったんだ」

「はい」


悠介は笑っていた。責めているようには見えなかった。


「もう放っといてくれって思ってました」


直人は何も言わなかった。


あの日のことは、よく覚えていた。


玄関先で悠介と十分ほど話した。学校に来いとは言わなかった。学校で何かできることがあったら言って、というようなことを話したと思う。


翌日、悠介は登校した。


直人は、その訪問がきっかけだったと思っていた。少なくとも、今日までは。


「先生、たぶん、いいことしたと思ってたでしょ」


悠介が言った。


「……思ってたかもしれない」

「ですよね」

「嫌だった?」

「すごく」


悠介はまたコーヒーを飲んだ。


「でも」


と言った。


直人は待った。


「先生が帰るときに言ったことだけ、ずっと覚えてます」


直人には分からなかった。


「何て言った?」


悠介は少し驚いた顔をした。


「覚えてないんですか?」

「覚えてない」

「マジか」


悠介は笑った。それから、窓の外を見た。


「『明日来なくてもいいから、卒業式だけは来いよ』って」


直人は黙った。


そんなことを言っただろうか。言ったのかもしれない。正直、覚えていなかった。


「俺、そのとき思ったんですよ」


悠介が言った。


「学校来なくていいって先生が言うんだ、って」

「うん」

「それで、なんか楽になった」

「次の日来たよね」

「そう」


悠介は笑った。


「だから先生、たぶん家に来たことは失敗なんですけど」

「そうだね」

「でも最後の一言は、よかったんですよ」


直人も少し笑った。


「差し引きゼロ?」

「いや、マイナス二くらい」

「マイナスなんだ」

「家まで来てますからね」


二人で笑った。



*


その夜、悠介は食堂で一人でビールを飲んでいた。夕食は外で食べてきたらしい。


直人は翌朝のパンを切っていた。


「先生」


悠介が言った。


直人は振り返った。


「だから、先生って呼ぶのやめてよ」

「じゃあ何て呼ぶんですか」

「直人さんとか」

「無理です」

「仕方ないか」


悠介はビールを飲んだ。


「俺、今、会社辞めようと思ってるんですよ」


直人はパンを切る手を止めなかった。


「そうなんだ」

「五年働いたんですけど」

「うん」

「別にブラックとかじゃないんですよ。給料も普通だし、人間関係も悪くない」

「うん」

「だから辞める理由がない」


直人はパンを並べた。


「辞めたい理由は?」


悠介はしばらく答えなかった。


「分かんないです」


直人はラップをかけた。


「じゃあ、分かるまで辞めなくてもいいんじゃない」

「先生っぽくない」

「そう?」

「もっと、やりたいことやれ、とか言うかと思った」

「教師だったころなら言ったかもしれない」


悠介が笑った。


「なんで今は言わないんですか」


直人は少し考えた。


「今の悠介の仕事、見たことないから」


悠介はしばらく黙っていた。


「やっぱ変わってないですね」


直人には、何が変わっていないのか、よく分からなかった。



*


翌朝、悠介は七時半に食堂へ下りてきた。


パンを二枚食べ、目玉焼きを一つ食べた。コーヒーはやはりブラックだった。


「今日どうする?」

「湖まで歩いてから帰ります」

「寒いよ?」

「知ってます」

「じゃあ大丈夫」


チェックアウトのとき、悠介は玄関でリュックを背負った。


「先生」

「はい」


直人はもう訂正しなかった。


「来てよかったです」

「それはよかった」

「また来ます」

「宿屋だからね。空いてれば」

「元教え子割引とかないんですか」

「ない」

「ケチ」


悠介は笑った。


玄関を出ていった。県道を少し歩いて、角を曲がった。


見えなくなった。


直人は食堂に戻った。


テーブルの上に、一枚の紙があった。宿のメモ用紙だった。


字は昔より小さくなっている気がした。


家まで来たのは嫌だった。


でも、卒業式だけは来いと言われたのは覚えている。


先生は覚えていなかった。


その下に、少し間を空けて、


たぶん、そういうものなんだと思う。


と書いてあった。


直人は紙を持ったまま、しばらく立っていた。


自分には残らなかった言葉を、悠介は覚えている。


授業で幾度も話したことは忘れられるのに、何気なく言った一言を、あとになって「あのとき先生が言った」と返されることがあった。

直人はもう一度、悠介の字を見た。

それから紙を二つに折り、カウンターの端に置いた。

窓の外を見ると、富士山の頂上に雲がかかり始めていた。

あと一時間もすれば、たぶん見えなくなる。


見えなくなったからといって、なくなるわけではない。


直人はコーヒーミルに豆を入れた。


今日は、もう一組来る。


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