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第5話 三号室の夫婦

三号室の二人は、よく話す夫婦だった。ただし、互いにはあまり話していなかった。


チェックインしたのは土曜日の午後三時半。


夫は健太、三十九歳。妻は美咲、三十八歳。東京から来た。


「二泊です」

「はい。三号室です」


直人は鍵を渡した。


「富士山側です。今日はきれいに見えてますよ」

「よかった」


美咲が笑った。


健太も窓の方を見た。


「本当だ」


二人とも感じがよかった。荷物も少ない。会話も普通だった。


だから直人は、最初は何も気にしなかった。


少し変だと思ったのは、夕食のときだった。


「この宿、何年目ですか」

「まだそんなに長くないですよ」

「大変じゃないですか」

「大変ですね」

「即答ですね」


美咲が笑った。健太も笑った。


それから健太が聞いた。


「前は何されてたんですか」

「まあ、いろいろです。海外行ったり、学校にいたり」

「幅広いですね」

「まとめると、いろいろです」


夫婦の仲が悪いようには見えなかった。料理を取り分ける。水がなくなれば相手のグラスにも注ぐ。美咲が椅子を引けば、健太が荷物をどける。


そういうことは自然にやっていた。


でも、二人の会話は続かなかった。


「これ、おいしいね」

「うん」

「明日、晴れるかな」

「晴れるんじゃない」

「どこ行く?」

「あとで考えよう」


それで終わる。


直人は厨房に戻った。


宿をやっていると、夫婦というものをよく見る。よく話す夫婦。ほとんど話さない夫婦。ずっと一緒にいる夫婦。食事のときだけ別々のものを見る夫婦。


どれが仲がいいのかは、直人にはよく分からなかった。


自分の夫婦についても、たぶん同じだった。


食後、美咲はコーヒーを頼んだ。健太はビールを飲んでいた。


「直人さん」


いつの間にか名前で呼ばれていた。


「はい」

「海外、住んだことあります?」


直人はコーヒーを置いた。


「ありますよ」

「どこです?」

「何か所か。仕事で行ったり来たりしてました」

「家族も一緒に?」

「一緒の時もありましたし、離れてた時もありました」


美咲が少しだけ真顔になった。


「離れてても、平気でした?」


健太がビールのグラスを置いた。


直人は二人を見た。少しだけ、空気が変わった。


「平気かどうかは」


直人は言った。


「その時はあんまり考えてなかったかもしれないですね」


美咲は黙った。


健太が聞いた。


「仕事なら、仕方ないですもんね」


直人は少し考えた。


「まあ。でも、仕方ないって言葉は便利ですからね」


健太は笑わなかった。美咲も笑わなかった。


直人は失敗したかなと思った。


「コーヒー、濃すぎました?」


と聞いた。


美咲が少し笑った。


「大丈夫です」


その夜は、それで終わった。



*


翌朝。


富士山は見えなかった。低い雲が南の空にかかっていた。


暖かい季節なら屋上に朝食を出すこともあるが、その朝は風も強かった。直人はいつも通り、一階の食堂にパンと卵を並べた。


健太は七時に食堂へ来た。一人だった。


「奥さんは?」

「さっき起きたばかりで」

「朝食、あとにします?」

「いや、僕だけ先に」


直人は玉ねぎときのこを炒め、卵で包んだ。焼いたパンと、トマトを添えて健太の前に置いた。


健太はスマートフォンを見ながら食べていた。十分ほどして、画面を伏せた。


「昨日の話なんですけど」


直人はコーヒーを淹れていた。


「海外?」

「はい」

「うん」

「妻に、海外赴任の話が来てるんです」


直人はカップを置いた。


「そうなんですね」

「三年です」

「どこ?」

「ジャカルタ」

「なるほど」

「行きたいみたいです」


健太はそう言った。責めるような言い方ではなかった。


「健太さんは?」

「行きたくないです」

「そうなんだ」

「仕事もありますし。親もいますし。家も買ったばかりで」

「うん」

「三年って、長いですよね」


直人は答えなかった。


三年が長いかどうかは、誰とどこで過ごすかで変わる気がした。


「子どもはいないんです」


直人には、その意味が分かった。


しばらく黙っていた健太に、直人はコーヒーを渡した。


「妻が行きたいなら、行けばいいと思うんです」

「うん」

「でも、それを僕が言ったら」


健太は笑った。


「たぶん、違う意味になりますよね」


直人も少し笑った。


「なるかもしれないですね」

「応援してる、じゃなくて」

「勝手にどうぞ、みたいに」

「そう」


二人で黙った。


「面倒ですね」


健太が言った。


「夫婦ですからね」


健太は困ったように笑った。直人もつられて、苦笑いを浮かべた。


少しして、美咲が降りてきた。


「おはようございます」

「おはようございます」


健太は何も言わなかった。美咲も何も聞かなかった。


直人はもう一度、玉ねぎときのこを炒めた。



朝食のあと、二人は出かけた。どこへ行くのか直人は聞かなかった。



*


午後三時過ぎに戻ってきた。


雨が降り始めていた。


健太は傘を持っていたが、美咲の肩が少し濡れていた。


「降られました?」


直人が聞いた。


「ちょっとだけ」


美咲が答えた。


「湖一周したんです」

「歩いて?」

「途中まで」

「途中まで?」


健太が笑った。


「途中で喧嘩したので」


直人は一瞬、返事に困った。


美咲が濡れた肩を払いながら言った。


「ちゃんと喧嘩したの、久しぶりなんです」

「そうなんですか」

「最近ずっと、話し合ってたので」

「喧嘩じゃなくて?」

「話し合いです」


健太が言った。


「冷静に」


美咲が笑った。


「すごく冷静に」

「それで今日、冷静じゃなくなった」

「はい」


二人とも、少し楽しそうだった。


直人はタオルを渡した。


「風邪ひかないようにしてください」

「それだけ?」


美咲が言った。


「何がです?」

「夫婦喧嘩したって言ってるのに」

「宿屋なんで」


美咲が笑った。


「便利ですね、それ」

「便利ですよ」


二人は部屋へ上がった。


夕食の時間になっても降りてこなかった。


八時前。健太が一人で来た。


「夕飯、まだ大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ」

「妻も来ます」


そのすぐあと、美咲も降りてきた。


二人は昨日と同じ席に座った。


直人は料理を運んだ。


「今日は話します?」


健太が言った。


美咲が健太を見た。


「ここで?」

「ここでいいんじゃない」


直人は皿を置く手を止めた。


「私はいないことにします?」

「無理でしょう」


美咲が笑った。


「じゃあ、聞いててください」

「なんでですか」

「第三者がいた方が、変なこと言わないから」


健太が言った。


「それ、直人さん困るだろ」

「困ります」


直人は即答した。


三人で笑った。


でも直人は、そのあとカウンターの中に戻った。


二人の話は聞こえた。聞こうとしなくても聞こえた。


「私は行きたい」


美咲が言った。


「分かってる」

「ずっと行きたかった」

「それも分かってる」

「じゃあ、なんで嫌なの」


しばらく沈黙した。


健太が言った。


「離れるのが嫌なんだよ」


美咲は何も言わなかった。


「仕事とか家とか、そういうのもあるけど」


健太は続けた。


「三年、別々に暮らすのが嫌なんだよ」

「じゃあ一緒に来る?」

「それも怖い」

「何が?」

「仕事辞めるのも。向こうで何するか分からないのも」

「うん」

「だから、どっちも嫌なんだよ」


美咲が小さく笑った。


「ずるいね」

「うん」

「私は、あなたが反対してるんだと思ってた」

「反対はしてない」

「でも行ってほしくない」

「そう」

「矛盾してる」

「知ってる」


また沈黙した。


美咲が言った。


「三年って、仕事だけの三年じゃないんだよ」


健太は何も言わなかった。


直人も皿を洗う手を止めなかった。


美咲はそれ以上言わなかった。


直人は皿を洗った。できるだけ音を立てないようにした。


昔、海外へ行く仕事をしていたころ。自分が出発する側だった。空港へ向かう日。スーツケースを引いて。仕事だから、と言って。


行く方には行く理由がある。残る方にも、残る理由がある。


その間にいる人間の気持ちは、当時あまり考えなかった。


今なら少し分かる気がした。


でも、少しだけだった。


「直人さん」


美咲に呼ばれた。


「はい」

「直人さんなら、どうします?」


直人は振り返った。


「何を?」

「私たちだったら」

「分かりません」


美咲が笑った。


「早い」

「だって分からないですよ」

「でも、海外行ってたんでしょう」

「だからって夫婦のことは分からないです」


健太が笑った。


「正しい」


直人はカウンターにもたれた。


「ただ」


二人が見る。


「三年後どうするかより、三年間どうするかを決めた方がいい気はしますけどね」


美咲が少し首を傾げた。


「どういうこと?」

「一緒に行くとか、別々に暮らすとか、それだけじゃなくて。どのくらい会うとか、いつ帰るとか、どっちが何を我慢するのかとか」

「具体的に?」

「そう。三年って言われると長いけど、一か月とか三か月なら少し考えやすいでしょう」


健太が黙っていた。


直人は言いすぎたと思った。


「まあ、宿屋の言うことなので」

「逃げた」


美咲が言った。


「はい」


二人とも笑った。


それから、昨日より長く二人で話していた。


直人は途中から聞かなかった。


食器を片付けて、翌朝のパンを確認して、予約サイトのメッセージを返した。


十一時近くになって、二人は部屋へ戻った。


翌朝。


富士山はまだ見えなかった。でも雨は上がっていた。


チェックアウトのとき、美咲が言った。


「決まりませんでした」

「そうですか」

「全然」


健太が言った。


「昨日より選択肢増えました」

「増えたんですか」

「はい」

「それは大変ですね」


三人で笑った。


美咲が鍵を返した。


「でも、話せたので」

「よかったですね」

「喧嘩もしたし」

「それもよかった?」


健太が言った。


「たぶん」


直人は鍵を受け取った。


「また来ます」


美咲が言った。


「今度は決まってから?」

「どうでしょう」


健太が笑った。


「決まってなくても来ていいですか」

「もちろん」


二人は外へ出た。駐車場まで並んで歩いていった。


途中、美咲が何か言った。健太が答えた。


何を話しているのかは聞こえなかった。


でも昨日までより、少しだけ二人の会話は長かった。


直人は玄関に立ったまま見送った。


空を見上げる。


富士山は雲の中だった。


見えないからといって、なくなったわけではない。


そんなことを考えてから、直人は少し嫌になった。


また、いいことを言おうとしている。


「宿屋なんだから」


誰もいない玄関でつぶやいた。



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