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第4話 泊まらなかった客

午後四時すぎ。玄関のベルが鳴った。


直人が出ると、七十代くらいの男が一人立っていた。小さなショルダーバッグだけ持っている。旅行客にしては荷物が少ない。


「今日、空いてますか」

「空いてますよ」


直人は答えた。平日だった。一号室と四号室が空いている。


「富士山も湖も見える一号室が空いてます。四号室なら湖側で、少し安くて――」

「あ、いや」


男は手を上げた。


「泊まらないんです」

「え?」


珍しく、反射的に声が出た。


「泊まらないんですか?」

「はい」


直人は男を見た。男も直人を見た。


「では、何をしに来たんですか」

「それを説明すると、ちょっと長いんです」

「じゃあコーヒー飲みます?」


男は笑った。


「お願いします」


宿屋という仕事を始めてから、直人は少し変わった客にも慣れた。夕飯はいらないと二回書いてくる客。富士山を見に来たのに一日中部屋にいる客。何も話さず三泊して帰る客。


ただ、泊まらない客は初めてだった。


男は窓際の席に座った。


十一月に入って、屋上で朝食を出す季節はもう終わっていた。テーブルと椅子も片づけてある。夏には朝から人の声がする宿も、この時期になると静かだった。


南側の窓の向こうでは、富士山が半分くらい雲に隠れていた。


直人がコーヒーを置く。


「それで?」


男は窓の外を見た。


「昔、この辺に民宿ありませんでしたか」

「昔というと?」

「四十七年前」

「昔すぎるなあ」


男が笑った。


「ですよね」

「宿の名前は?」

「それが分からないんです」

「おや」

「忘れました」


直人は椅子に座った。


「難易度が高いですね」

「だから困ってまして」


男はバッグから一枚の写真を出した。少し黄ばんでいる。


湖を背景に、若い男女が四人並んでいた。男三人、女一人。全員、妙に髪が長い。ズボンの裾も広い。


「昭和ですね」

「昭和ですよ」

「すごいな」

「何がです?」

「ズボン」

「そこですか」


男が笑った。


写真の四人も笑っている。ひどく楽しそうだった。


「大学二年の時です」


男は言った。


「四人でここへ来たんです」

「仲良かったんですね」

「まあ、あの頃は」


直人は写真を見た。


「この人があなた?」

「これです」


端に立っている細い男を指した。今とはほとんど別人だった。


「分からないですね」

「自分でも分かりません」

「残りの三人は?」


男は順番に指さした。


「こいつが岩田。こっちが佐々木。それで、これが恵子」


女の人だった。


「今も会うんですか」


男は少し間を置いた。


「昨日、四十年ぶりくらいに会いました」

「四十年ぶり」

「一人、死んだんです」


直人は写真から顔を上げた。


男は岩田という人を指していた。


「一昨日が葬式でした」

「そうでしたか」

「大学を卒業してから、それぞれ仕事して、結婚して。年賀状くらいは来てましたけど」

「四人では?」

「一度も」

「そうなんですね」


男はコーヒーを飲んだ。


「葬式のあと、三人で飯を食べましてね」

「残った三人で」

「ええ」


しばらく、窓の外を見ていた。


「そしたら、佐々木が言ったんです。あの時の民宿、まだあるのかなって」

「それで来た?」

「はい」

「三人で?」

「いや」


男は笑った。


「来たのは私だけです」

「なんで」

「二人とも用事があるって」

「本当に?」

「たぶん嘘です」


直人も笑った。


「大人になると便利ですね。用事があるって言えばだいたい済む」

「本当に」


男は写真を指で撫でた。


「でも、私も昨日まで来るつもりはなかったんです」

「じゃあなんで?」

「朝起きたら、来たくなった」


直人は頷いた。


そういうことは、たぶんある。理由が先にあるのではなくて、身体の方が先に動く。


昔、旅先で何度もそんなことがあった。予定にはない場所へ、なぜか行ってみたくなる。だいたい、そういう場所の方をあとで覚えていた。


男は窓の外を見た。


「民宿、この辺だったと思うんです」

「写真だけじゃ分からないなあ」

「ですよね」

「四十七年あれば、湖以外だいたい変わってるでしょうし」

「そうなんです」


男は苦笑した。


「でも、湖は同じなんですよね」

「まあ」


直人も見る。


「いや」

「ん?」

「水は入れ替わってるでしょうから」


男が吹き出した。


「そういうこと言います?」

「社会科だったんで」

「社会科?」

「昔、教師だったんです」

「なるほど」

「納得しちゃいますか」


男はまた笑った。


少しして、直人が聞いた。


「四人、仲良かったんですよね」

「仲は良かったです」

「なんで四十年も会わなかったんです?」


男はしばらく考えた。


「別に、何かあったわけじゃないんですよ」

「喧嘩とか」

「ないです」

「じゃあ自然に?」

「自然に」


男はそう言ってから、少し笑った。


「いや」

「違う?」

「恵子が岩田と結婚したんです」

「ああ」

「私、恵子が好きだったんですよ」


直人は写真を見た。


「なるほど」

「何です、その顔」

「いや。急に昭和の青春映画っぽくなったなと思って」

「でしょう」

「告白したんですか」

「してません」

「なんで」

「岩田も好きなの知ってましたから」

「譲った?」

「そんな格好いいものじゃないです」


男はコーヒーを飲んだ。


「言えなかっただけです」

「結婚式は?」

「行きました」

「偉い」

「偉くないですよ」

「辛かったでしょう」


男は窓の外を見た。


「辛かったんでしょうね」

「でしょうね、って」

「もう忘れました」


直人は少し笑った。


「本当に?」


男も笑った。


「たぶん」


それから二人で写真を眺めた。


四人とも若い。何か面白いことがあったのか、全員が同じ方向を向いて笑っている。


「いい写真ですね」


直人が言った。


「そうでしょう」


男は写真を持ち上げた。


「でも昨日、気づいたことがあって」

「何です?」

「この写真」

「はい」

「誰が撮ったと思います?」


直人は写真を見た。四人いる。旅行したのも四人。


「……あ」


男が頷いた。


「そうなんです」

「五人目がいた?」

「いたんです」

「誰?」

「それが」


男は頭を掻いた。


「思い出せない」


直人は笑った。


「昨日からずっと考えてるんですよ」


四人は一泊だけ、この湖の近くの民宿に泊まった。その夜、食堂で同い年くらいの男と知り合った。一人旅だった。東京の大学生だった気がする。


五人で酒を飲んだ。翌朝、一緒に湖まで歩いた。その男が写真を撮った。


「で、その人は?」

「そこで別れました」

「連絡先は?」

「聞いたと思うんです」

「じゃあ」

「なくしました」


男は笑った。


「ひどいでしょ」

「名前も忘れた?」

「はい」

「顔も?」

「何となく」

「何となく」


男は写真を見た。


「昨日、友人が一人死んで、四十年ぶりに三人で会って」


直人は黙って聞いた。


「その帰りから、なぜかそいつのことばかり考えるんです」

「名前も覚えてない人?」

「はい」

「なんででしょうね」

「分かりません」


男は少しだけ困った顔をした。


「一晩しか会ってないんですよ」


直人は写真を指した。


「でも、この写真はその人が撮った」

「そう」

「じゃあ、ここにはいないけど」


直人は四人の向こう側を見るように言った。


「いるんじゃないですか」


男は直人を見た。


直人は少し恥ずかしくなった。


「いや、今のはちょっといいこと言おうとしました」


男が笑った。


「宿屋なのにね」

「宿屋はいいこと言っちゃいけないんですか」

「なるべく」


夕方五時を過ぎた。


十一月の日は短い。窓ガラスの向こうで、富士山は少しずつ暗がりに溶けていった。


男は立ち上がった。


「ありがとうございました」

「本当に泊まらないんですね」

「泊まりません」

「せっかく部屋空いてるのに」

「今日は家に帰ります」

「どこです?」

「八王子」

「近いですね」

「近いですよ」

「四十七年かけて来たわりには」


男は笑った。


玄関まで送る。


「また来ます」

「今度は泊まってください」

「三人で来てもいいですか」

「もちろん」

「二人が来ればね」

「用事あるんじゃないですか」

「また嘘つくでしょうね」

「連れてきてください」


男は立ち上がり、バッグを肩にかけた。


外に出る前に振り返った。


「ところで」

「はい」

「結局、どこだったかは分からないですよね」

「そうですね」

「でも、この辺のどこかにはあったんでしょうね」


直人は頷いた。


「たぶん」


男は少し笑った。


「それで十分です」


男は出ていった。


直人はその背中を見送った。


四十七年前の宿がどこにあったかは分からない。でも、男にとってはもう、それほど重要ではなかったのかもしれない。



*


二週間後。


宿に封筒が届いた。差出人を見ても、直人はすぐには思い出せなかった。


開けると、写真のコピーが入っていた。


湖の前の四人。あの写真だった。


裏に、短く書いてある。


名前を思い出しました。


山本君でした。


横浜の大学生でした。


あの日、写真を撮ったあと、五人でカレーを食べました。


四十七年も忘れていて、申し訳ない。


直人はしばらく写真を見た。


山本君は写っていない。だから、どんな顔だったのかは分からない。


それでも、確かにそこにいた。

直人は写真を持って、食堂を見回した。

それから、壁の空いているところに貼った。

*


その日の夕方。


新しい客がチェックインした。二十代くらいの女性だった。


荷物を置いて食堂へ来ると、壁の写真に気づいた。


「これ、誰ですか」


直人はコーヒーを淹れながら答えた。


「知らない人たち」


女性が写真を見る。


「知らない人を飾ってるんですか」

「うん」

「なんで?」


直人は少し考えた。


「泊まらなかった客の話」

「何ですか、それ」

「長い話」

「暇なので聞きたいです」

「じゃあ、四十七年前から話すけど」


女性が笑った。


「長そう」

「言ったでしょ」


直人も笑い、それから、マグカップをもう一つ棚から出した。


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