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第3話 写真

予約サイトの備考欄には、英語でこう書いてあった。


No dinner, thank you.


その下に、もう一度、

NO DINNER.

と書いてあった。


直人は少し笑った。


よほど夕飯を食べさせられたくないらしい。


予約者の名前は、マーク・ヘンダーソン。五十七歳。オーストラリアから一人旅。三泊。


宿泊理由の欄には、

Mount Fuji.

とだけあった。


分かりやすい。


マークが到着したのは午後六時を過ぎた頃だった。


直人がカウンターから外を見ると、県道から赤い大型リュックが入ってきた。


実家の庭の脇にあるコンクリートの階段を上がってくる。


短パンにサンダルだった。


十月だった。


「寒くない?」

玄関を開けながら直人が言った。

「すごく寒い」

「だよね」

「失敗した」

「だと思う」

マークは笑った。


日本語をほとんどできなかったので、そのあとの会話は英語になった。もっとも、直人にとって英語で客と話すことは珍しくなかった。


チェックインを済ませると、マークは食堂を見回した。


一階の半分ほどを占める共有スペースには、四人掛けのテーブルがいくつかと、窓際に小さなカウンターがある。奥がキッチンで、その向こうには宿の大きさには少し不釣り合いな風呂があった。


「夕飯は?」

マークが聞いた。

「なし」

直人が言った。


マークは両手を上げた。


「そう。夕飯はいらない」

「分かってるよ」

「重要だから」

「なんでそんな大事なの」


マークは腹を叩いた。


「日本は危険だ」

「治安いいけど」

「食べ物が危険だ」

「そっちか」

「ラーメン。寿司。天ぷら。カレー。コンビニ。全部危険だ」

「食いすぎただけじゃん」

「そうだ」

マークは真顔でうなずいた。


この男、たぶん面倒くさい。


直人はそう思った。


そしてだいたい、そういう客の方があとで面白い。


マークの部屋は三号室だった。


三号室は富士山側だった。窓からは、小学校の屋根の向こうに富士山が見えた。


ただし、その日はもう暗くなり始めていた。


「富士山は?」

荷物を置いたマークが聞いた。

「そこ」

直人は窓の向こうを指した。


マークはしばらく暗い空を見た。


「見えない」

「夜だからね」

「明日は?」

「晴れれば」

「晴れる?」

「知らないよ」


マークは不満そうな顔をした。


「屋上もあるよ。そこなら湖も見える」

「今行ける?」

「行けるけど、寒いよ」

マークは短パンを見た。

「明日にする」

「賢明だね」


*


その夜八時。


直人は自分の夕飯を作った。


鶏肉とキャベツの炒め物。味噌汁。冷ややっこ。


客に出すようなものではない。冷蔵庫の余り物だった。


テレビもつけず、一人で食べ始めたところで、階段から足音がした。


マークだった。


「いい匂いだな」

「夕飯いらないんでしょ」

「いらない」

「うん」


マークは食堂を横切り、冷蔵庫から自分の水を出した。


それから直人の皿を見た。


「鶏肉?」

「うん」

「うまそうだ」

「食べる?」

「いや」

「知ってた」


マークは水を飲んだ。


まだ立っている。


直人は食べ続けた。


マークは味噌汁を見た。


「味噌汁?」

「そう」

「手作り?」

「味噌は作ってない」

「うまい?」

「最高だよ」


マークは椅子に座った。


「何してんの」

「夕飯はいらない。ただ座ってるだけだ」

「そう」


三分後。


マークは鶏肉を食べていた。


「夕飯じゃないの?」

「これは味見だ」

「一皿食ってるけど」

「Big tasting.」

「初めて聞く言葉だよ」


*


翌朝六時半。


直人が食堂へ入ると、マークはすでに起きていた。


南側の窓の前に立っている。


富士山がきれいに出ていた。雲ひとつない。


「おはよう」

直人が言った。

マークは振り返らなかった。

「すごい」

それだけ言った。


直人はコーヒーを淹れ始めた。


十月になると、屋上で朝食を出すにはもう少し寒い。


暖かい季節なら、今ごろは屋上のテーブルにパンと卵とコーヒーを並べているところだった。


「屋上、行く?」

直人が聞いた。

マークはようやく振り返った。

「今?」

「今が一番きれいだよ」


マークは一度、自分の短パンを見た。

それから言った。

「行く」


二人で階段を上がった。


屋上に出ると、冷たい空気が頬に当たった。


南には小学校の屋根があり、その向こうに富士山が大きく見えた。振り返れば、北には朝の光を受けた湖がある。


よりみちは湖畔の宿ではない。


湖までは歩いて十五分かかる。


でも、屋上からなら見える。


ここは直人のちょっとした自慢だった。


マークは何も言わなかった。


スマートフォンを出した。写真を撮る。もう一枚。もう一枚。


それからスマートフォンを下ろした。


「写真じゃ駄目だな」

「そう?」

「ああ」

「もっといいカメラ持ってくればよかったね」

「違う」

マークは首を振った。

「写真じゃ、これは無理だ」


直人は富士山を見た。


「まあね」

「毎日これを見るのか?」

「見えればね」

「幸運な男だな」


直人は笑った。


「住むと普通になるよ」


マークはそれを聞いて、少し不思議そうな顔をした。


「何でも普通になるのか?」

「だいたいね」

「これも?」

「うん」


マークはもう一度富士山を見た。


「それは悲しいな」


直人は返事をしなかった。


寒くなってきたので、二人で一階へ戻った。


朝食のあと、マークは河口湖を一周すると言って出ていった。自転車を借りるつもりらしい。


「気をつけて」

「簡単だろ」

「まあ平らだからね」

「よく自転車に乗るんだ」

「はいはい」


*


夕方五時。


マークは帰ってこなかった。


六時。


まだ帰らない。


七時。


直人は少し心配になった。


予約時に登録されていた電話番号へかけてみた。


出ない。


七時二十分。


電話が鳴った。


マークだった。


後ろで車の音がしている。


「どこにいる?」

しばらく沈黙。


「分からない」

「なんでだよ」

「道路にいる」

「全部道路だよ」

「きれいな道だ」

「どこ」

「山」

「山いっぱいあるよ」


マークは位置情報を送ってきた。


直人は画面を見た。


「全然湖一周してないじゃん」


どういうわけか、かなり山の方へ入っている。


「簡単だって言っただろ」

「湖一周ならな」

「途中で予定を変えた」

「勝手に変えるなよ」


結局、直人は車で迎えに行った。


道路脇に、マークはいた。自転車の横に座っていた。


「悪かった」

「ほんとだよ」

「でも、きれいな道だった」

「見れば分かる」

「すごく急だった」

「地図見ろよ」


自転車を車に積んだ。


帰り道、マークは助手席で静かだった。


十分ほどして言った。


「ありがとう」

「どういたしまして」

「いいホテルマンだな」

「ゲストハウス」

「いいゲストハウスマンだ」

「なんだそれ」


少し走った。


「息子がいるんだ」

マークが突然言った。

「へえ」

「三十一歳」

「大きいね」

「ああ」


それ以上何も言わない。


直人も聞かなかった。


五分ほどして、マークが続けた。


「三年、話してない」


直人は前を見たまま聞いた。


「三年?」

「ああ」

「長いね」

「長い」


また沈黙した。


マークは窓の外を見ていた。


山道の向こうに、町の明かりが見えてきた。


「なんで?」

直人が聞いた。

「何が?」

「なんで話してないの」


マークは少し考えた。


「くだらないことだよ」

「だいたいそうだよね」

「結婚したいって言ったんだ」

「息子が?」

「ああ」

「それで?」

「若すぎるって言った」

「三十一で?」

「そのときは二十八だった」

「ああ」

「息子は、俺が自分を尊重していないって言った」

「なるほど」

「俺は、あいつは人生を分かってないって言った」

「言っちゃったね」

「ああ」

「で、結婚したの?」

「した」

「呼ばれた?」

「呼ばれなかった」

「うわ」


マークは笑った。


笑ったけれど、すぐに黙った。


「今、子どもがいる」

「孫?」

「女の子。一歳」

「会った?」

「写真だけ」


それだけだった。


宿に着いた。


二人で自転車を下ろした。


マークは玄関に入る前に言った。


「夕飯、食べてもいいか?」

直人は笑った。

「予約にはNO DINNERって二回書いてあったけど」

「予定を変えた」

「またかよ」


直人は冷蔵庫を開けた。


たいしたものはなかった。


豚肉。玉ねぎ。卵。冷凍うどん。


「うどんでいい?」

「危険か?」

「すごく危険」

「ならいい」


二人で食べた。


マークは七味を入れすぎてむせた。


「辛すぎる」

「自分で入れたんだろ」

「日本の罠だ」

「知らんよ」


食べ終わってから、マークはスマートフォンを取り出した。


画面をしばらく見ている。


「シドニー、今何時?」

直人が聞いた。

「もうすぐ十一時だ」

「じゃあ今日はやめといた方がいいな」


マークはスマートフォンを置いた。


また持った。


直人は皿を洗っていた。


「電話すんの?」


マークは答えなかった。


「一歳の子どもいるんでしょ」

「ああ」

「じゃあ遅いよ」


マークはスマートフォンを置いた。


「明日になったら、しないかもしれない」


直人は蛇口を止めた。


「じゃあ、明日の朝ここでしなよ」

「ここで?」

「逃げられないように見張っとく」


マークが笑った。


*


翌朝。


直人が食堂へ入ると、マークはもう窓際に座っていた。スマートフォンがテーブルの上に置いてある。


「おはよう」

「おはよう」

「電話は?」

マークはコーヒーも飲んでいないのに、難しい顔をした。

「今からする」

「そっか」


直人はキッチンへ入った。


コーヒーを淹れているあいだに、背後でマークが電話をかけた。


「Hello」

それだけ聞こえた。


直人は振り返らなかった。


しばらくすると、マークはスマートフォンを持って外へ出た。


十分。


二十分。


三十分。


戻ってこない。


直人は朝食の準備をした。


四十分ほどして、玄関が開いた。


マークが入ってきた。目が少し赤かった。


直人は何も聞かなかった。


「コーヒー?」

とだけ聞いた。

「ああ」


直人は二杯淹れた。


マークはカップを持って、しばらく湯気を見ていた。


「孫を見た」

「おお」

「ビデオ通話で」

「かわいかった?」


マークが笑った。

「すごく」


それから鼻をすすった。


「息子が、帰ってこいって」


直人はうなずいた。


「よかったじゃん」


マークはコーヒーを飲んだ。


「どうかな」

「どうかな?」

「あいつはまだ馬鹿だ」

直人は吹き出した。

「お前もな」


マークも笑った。


その日の朝。


マークは予定より一日早くチェックアウトした。


「もう帰るの?」

「東京。それからシドニー」

「富士山、もういいの」


マークは窓の外を見た。


その日は雲が多く、山頂しか見えていなかった。


「十分見た」

「そっか」

「また来るかもしれない」

「今度は長ズボンで来な」

「それと夕飯」

「夕飯つける?」

「ああ」


マークはリュックを背負った。


玄関を出る直前、振り返った。


「直人」

「ん?」

「何でも普通になるって言っただろ」


昨日の言葉だった。


直人は少し考えた。


「たぶんね」

マークは首を振った。

「全部じゃないといいな」


そして階段を下りていった。


*


その日の午後。




直人が食堂を掃除していると、テーブルの下に折りたたまれた紙を見つけた。


開くと、英語で書いてあった。


NO DINNER.


その下に線が引かれ、


Call your son.


と書き直されていた。


直人は笑った。


紙をもう一度見た。


それからスマートフォンを取り出して、画面を開いた。


しばらく指を動かさずに眺めていた。


「まあ、いいか」


画面を閉じた。


窓の外では、富士山が雲の中に隠れていた。


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