第2話 親子
予約は、一週間前に入った。
大人一人、子ども一人。
備考欄には、
「娘が人見知りです。できれば静かな部屋をお願いします」
とだけ書いてあった。
よりみちは四部屋しかない。その日はほかの予約も一組だけだったから、どの部屋にしてもそれほど騒がしくはならない。
直人は、一号室を空けた。
少しだけ、贔屓した。
よりみちの客室はすべて二階にある。一号室はいちばん広く、南の窓から小学校の屋根越しに富士山、北の窓から湖が見える。二号室と三号室は富士山側だった。
親子が来たのは午後四時過ぎだった。
宿の脇を走る細い道の向かい側には、四台ほど停められる駐車場がある。母親と娘が駐車場の方から歩いてくるのが、受付にいた直人から見えた。
母親は三十代後半くらい。ベージュのコートに、大きなトートバッグ。
娘は十二、三歳くらいだった。黒いパーカーを着て、帽子を深くかぶっている。
「こんにちは」
直人が言った。
母親が頭を下げた。
「今日から二泊で予約している森田です」
「はい。お待ちしてました」
娘は何も言わなかった。
直人は気にしないふりをした。
こういうのは、教師をやっていたころから得意だった。話さない子に、無理に話しかけない。ただし、存在していることはちゃんと分かっている。
「荷物、重そうですね」
母親に言ったあと、
「そっちのリュックは大丈夫?」
と娘にも聞いた。
娘は小さくうなずいた。
それで終わりにした。
一階には受付、浴場、それに共有の食堂がある。浴場は受付の裏手にあり、食堂とキッチンはひと続きになっていた。
宿を建てるとき、直人は風呂だけは広くしたかった。
四部屋しかない宿には少し大きすぎるくらいだったが、そこは削らなかった。
二階へ上がり、部屋を案内すると、母親が窓を見て少し声を上げた。
「わあ」
小学校の屋根の向こうに、富士山が出ていた。昨日までの霧が嘘みたいだった。
娘は窓際まで行った。
「すごいね」
母親が言った。
娘はやっぱり何も言わなかった。けれどスマートフォンを取り出して、写真を一枚撮った。
「こっちから湖も見えますよ」
直人が横の窓を指した。
娘がそちらを見た。
建物の間から、湖の青いところが見えた。
「屋上に行けば、両方もっとよく見えます」
娘は何も言わなかったが、もう一枚写真を撮った。
*
その夜、二人は夕食を頼んだ。
直人は鶏肉と野菜を焼いた。味噌汁もつけた。豪華ではない。でも子どもがいるときは、できるだけ見たことのある料理を出すことにしていた。
「嫌いなものある?」
直人が聞くと、母親が先に答えた。
「魚がちょっと苦手で」
娘が母親を見た。ほんの一瞬だった。でも直人は見逃さなかった。
「魚、今日ないよ」
娘が小さく息を吐いた。
「よかったね」
母親が笑った。
娘は返事をしなかった。
食事の間、母親はよく話した。東京から来たこと。夫は仕事で来られなかったこと。娘が中学一年生であること。最近、学校へあまり行けていないこと。
そこまで話したところで、母親は急に黙った。
「あ、ごめんなさい」
「いや」
直人は味噌汁を運んだ。
「こういう宿だと、つい話しちゃいますよね」
母親は笑った。
その笑い方が少し苦しかった。
娘は箸で鶏肉を小さく分けていた。
「学校、嫌い?」
直人は聞かなかった。
代わりに、
「中学校って給食あるの?」
と聞いた。
娘が顔を上げた。
「あります」
初めて声を聞いた。思ったより低かった。
「いいな。中学校の給食好きだったよ。きなココ揚げパンとか」
娘が少し笑った。
「なにそれ」
「え、ないの?」
「ないです」
「それは残念だね」
娘がもう一度笑った。
母親も笑った。
そのあと、娘は少しだけ話した。理科が好きなこと。体育が嫌いなこと。学校には行く日もあるけれど、教室にはあまり入らないこと。
「相談室にいる」と娘は言った。
直人が勤めていた中学校にも、相談室があった。同じ呼び名を聞いて、そこにいる生徒たちの顔がいくつか浮かんだ。
直人は、何をする部屋なのか聞かなかった。理由も聞かなかった。
*
夜九時すぎ。
二人が部屋へ戻ったあと、直人は食堂の電気を少し暗くした。
カウンターで予約サイトの返信をしていると、階段から足音がした。
娘だった。
「水、ありますか」
「あるよ」
直人は冷蔵庫からペットボトルを出した。
「お母さん寝たの?」
「たぶん」
娘は受け取った。でも戻らなかった。
食堂の入口に立ったままだった。
「どうした?」
「別に」
「じゃあ、別に座ってけば」
娘は少し迷って、窓際の席に座った。
外は真っ暗だった。富士山も見えない。
直人はコーヒーを淹れようとして、やめた。
代わりに麦茶を出した。
「おじさん、先生だったんですか」
「なんで分かった?」
「お母さんが言ってた」
「なんだ」
「何の先生?」
「社会」
「一番嫌い」
「失礼だな」
娘が笑った。
「社会って意味ないじゃん」
「先生の前で言う?」
「もう先生じゃないでしょ」
「強いな」
少し沈黙した。
娘はペットボトルのラベルを剥がしていた。
「学校、行った方がいいと思いますか」
直人はすぐには答えなかった。
昔なら、答えていた。教師だったころなら、たぶん。
行けるなら行った方がいい。友達も待ってる。勉強も心配。先生も来てほしいと思ってる。
そういう言葉を、何度も言った。正しいと思っていた。
今も間違いだとは思わない。
でも、それだけではなかったとも思う。
「学校ってさ」
直人は言った。
「行ける日は行けばいいんじゃない」
娘は眉をひそめた。
「それだけ?」
「うん」
「先生っぽくない」
「もう先生じゃないから」
娘はラベルを丸めた。
「お母さんは、行ってほしいと思ってます」
「そうだろうね」
「先生も」
「そうだろうね」
「みんな同じこと言う」
「じゃあ、俺まで言わなくていいか」
娘が黙った。
「でも」
直人は続けた。
「行かないなら行かないで、何もしなくていいとは思わない」
娘が顔を上げた。
「何かはやった方がいい。勉強でも、本でも、散歩でも、料理でも。なんでもいいけど」
「なんで?」
「一日って、結構長いから」
娘は少し考えた。
「あと、自分で決めたって思えることが一個くらいあった方がいい」
「学校行かないのも?」
「それも含めて」
直人はそこで話をやめた。
言いすぎたと思った。
教師を辞めても、このくらいの歳の子と話していると、昔の感覚が戻る。
娘はしばらく外を見ていた。
「私」
と言った。
「うん」
「教室、うるさいんです」
直人は黙って聞いた。
「みんなずっとしゃべってて。先生も怒ってて。なんか全部聞こえる」
「うん」
「あと、休み時間が嫌」
「なんで」
「何したらいいか分かんないから」
直人は、少し胸が痛くなった。
そういう子を、何人見てきただろうと思った。そしてそのうち何人を、ちゃんと見ていたのだろうとも思った。
「相談室は?」
「そこなら、いられる」
「そっか」
「でも、ずっといたらだめな気がする」
「なんで?」
「教室に行ってないから」
「学校には行ってるじゃん」
「そうだけど」
「行かないよりいいんじゃない」
娘は少し笑った。
「適当」
「うん。今は宿屋だから」
今度は二人とも笑った。
*
翌朝。
母親と娘は湖畔を散歩してから戻ってきた。
暖かい季節の晴れた朝は、朝食を屋上に出すことにしている。
よりみちは湖畔の宿ではない。湖までは歩いて十五分かかる。
そのかわり、屋上に上がれば、南には小学校の屋根越しに富士山が見える。振り返れば、北には湖が広がっている。
屋上は、直人のちょっとした自慢だった。
母親と娘が戻ってきたころには、テーブルに朝食を並べ終えていた。
娘は階段を上がるなり、富士山を見た。
「昨日より大きい」
「同じ大きさだよ」
直人が言った。
「分かってる」
娘が笑った。
朝食のとき、娘は昨日よりよくしゃべった。まだ温かい玉子焼きが、ほんのり甘くておいしいこと。富士山は昨日より今日の方が大きく見えること。湖にカモがいたこと。
母親は少し驚いた顔で娘を見ていた。
直人は見ないふりをした。
*
二日目の午後、二人は出かけた。
夕方帰ってきたとき、娘は小さなノートを買っていた。青い表紙だった。
「何それ」
直人が聞いた。
「日記」
「へえ」
「毎日一個、自分で決めたこと書く」
直人は一瞬、何も言えなかった。
「いいじゃん」
それだけ言った。
*
チェックアウトの日。
母親が会計をしている間、娘は玄関に立って、外の道をぼんやり見ていた。
「また来ます」
母親が言った。
「ぜひ」
娘はドアを開けた。
それから振り返った。
「おじさん」
「ん?」
「月曜日、相談室には行きます」
「そっか」
「教室も、入れそうだったら入ってみる」
「いいんじゃない」
「無理だったら戻る」
「いいんじゃない」
娘は少し笑った。
「それしか言わないね」
「宿屋だから」
「何それ」
娘は笑った。
二人は玄関を出て、道の向かいの駐車場へ歩いていった。
娘は車の前で一度、振り返った。
直人が手を上げると、娘も手を上げ、それから助手席のドアを開けた。
少し乾いた風が吹き、道沿いの木の葉が揺れていた。




