第1話 エチオピアの若者
ゲストハウス「よりみち」には四つの客室がある。一号室がいちばん広く、南の窓から富士山、北の窓から河口湖が見える。家族でも泊まれる部屋で、その分、宿泊料もいちばん高い。二号室と三号室は富士山側。四号室は湖側で、富士山は見えない。その分、少し安い。
予約サイトには、一号室は「マウンテン&レイクビュー」、二号室と三号室は「マウンテンビュー」、四号室は「レイクビュー」と書いてある。少し大げさな気もするが、嘘ではない。
四部屋しかない宿でも、窓の向きで景色はずいぶん違った。
「今日は見えませんね」
朝食の皿を運びながら言うと、窓際に座っていた青年は顔を上げた。
「何がですか」
「富士山」
青年は窓の外を見た。
小学校の屋根の向こうは一面の白だった。霧が低く降りて、富士山はすっかり消えている。
「昨日も見えませんでした」
「昨日は雨だったからね」
「私は、富士山を見るために来ました」
「そうだよね」
直人は笑った。
「だいたいみんなそう言う」
青年は笑わなかった。
名前はサミュエルといった。二十六歳。エチオピア出身。宿泊者カードの所属先欄には、東京の大学名が書かれていた。二泊の予定だった。
「よりみち」は、河口湖の湖畔から少し離れた県道沿いにある、小さなゲストハウスだった。駅から歩けば二十五分ほど。湖までは十五分ほどかかる。
裏手にある実家とは、庭の端にあるコンクリートの階段でつながっている。宿の脇を走る細い道の向かい側には、四台ほど停められる駐車場がある。
湖畔の宿ではない。
そのかわり、屋上からの眺めには自信がある。南には小学校の屋根越しに富士山が見え、北には河口湖が見える。暖かい季節には、そこで朝食を出すこともある。
サミュエルは昨日の午後に着いてから、ほとんど外へ出ていない。夕方、直人が湖畔の遊歩道を教えたときも、「あとで」と言ったきりだった。そのあと共有スペースでずっとノートパソコンを開いていたが、仕事をしているようには見えなかった。
画面は一時間以上、同じページのままだった。
*
今朝も静かだった。
「オムレツ、大丈夫だった?」
「はい。とてもおいしいです」
「パン、もう一枚いる?」
「大丈夫です」
会話が終わった。
直人はカウンターの中に戻り、コーヒー豆を量った。
この宿を始めたころは、客ともっと話すものだと思っていた。外国人が来て、昔住んでいた国の話をして、日本人が来れば仕事や家族の話をして。
夜になればみんなが食堂に集まって、ビールでも飲みながら知らない人同士が仲良くなる。
そういう光景を、直人は勝手に想像していた。
実際には、客はそれほど話さない。スマートフォンを見ている。疲れている。早く寝る。そして翌朝には出ていく。
それでも、ときどき妙に長く残る人がいる。
サミュエルもそういう客なのかもしれない、と直人は思った。
「エチオピアのどこ?」
豆を挽きながら聞いた。
「何がですか?」
「出身。アディス?」
「いえ。アファールです」
直人の手が止まった。グラインダーのモーター音だけが少し遅れて止まった。
「アファール?」
「知っていますか」
「うん」
サミュエルが初めて少し笑った。
「日本では、誰も知りません」
「まあ、普通は知らないか」
直人はドリッパーにフィルターを置いた。
「俺、昔ちょっと行ったことあるよ」
「本当ですか?」
「仕事でね」
「どこですか」
「セメラとか、そのあたり」
サミュエルは椅子から少し身を乗り出した。
「私の家族は、セメラから車で二時間くらいのところです」
「へえ」
直人は湯を少しずつ注いだ。粉が膨らんだ。湿ったコーヒーの匂いが食堂に広がった。
「暑いよね」
「とても」
「何度あったっけな。四十度?」
「もっとです」
「だよね」
二人で少し笑った。
その笑い方で、直人はサミュエルがようやくこの宿に着いたような気がした。
「何の仕事をしていたんですか」
「若い人たちの仕事を作ったり、職業訓練やったり。そんな感じ」
「NGO?」
「いや、日本の開発援助関係」
「ああ」
サミュエルは少し考えた。
「日本人が昔、私の村の近くにも来ていました」
「そうなんだ」
「水のプロジェクトです」
「俺じゃないな」
「もちろん」
即答されて、直人は笑った。サミュエルも笑った。
やっと普通の若者みたいな顔になった。
「母は覚えています」
「日本人のこと?」
「はい。名前は知りません。でも覚えています」
直人はコーヒーをカップに注いだ。
「何を覚えてるの?」
サミュエルは少し困った顔をした。
「変なことです」
「なに」
「その日本人が、毎日帽子をかぶっていたこと」
直人は吹き出した。
「仕事じゃないじゃん」
「でも母はそれを覚えています」
「そんなもんか」
「そんなものです」
直人は自分のカップにもコーヒーを注いだ。
昔、自分がどんな帽子をかぶっていたか考えた。思い出せなかった。
仕事で行った場所のことは覚えている。未舗装道路。乾いた川。村人が集まった木陰。
車で地方に向かう途中、同僚と毎日のようにコーヒーを飲んだ。昼前に仕事が終わると、帰り道で昼食をとった。
そういうことは、案外覚えている。
でも、そこで自分がどんな顔で笑っていたかとか、誰とどんなくだらない話をしたかとか、そういうことはほとんど覚えていない。
「あなたも、誰かに覚えられていると思います」
サミュエルが言った。
直人はカップを口に運びかけて止めた。
「俺?」
「はい」
「どうだろうね」
「たぶん」
「そんな大したことしてないから」
サミュエルは何も言わなかった。
「今日は東京へ帰る?」
直人が聞いた。
「はい」
「富士山、結局見えなかったね」
「そうですね」
「また来ればいいよ」
サミュエルは窓の外を見た。
それから、少し間を置いて言った。
「私は、エチオピアに帰るかもしれません」
直人は黙った。
サミュエルは続けた。
「大学院を終えたら、日本で働くつもりでした。でも父は帰ってこいと言っています」
「帰りたい?」
「わかりません」
「そっか」
「父と、二か月話していません」
以前の直人なら、何か言ったかもしれない。
せっかく勉強したのだから地元に帰った方がいいとか、日本に残るのも一つの選択だとか。
けれど、人の人生について、外から言えることは案外少ない。
アファールのことを少し知っているからといって、サミュエルの人生がわかるわけではない。
直人は自分のコーヒーを飲んだ。
「冷めるよ」
サミュエルはカップを見た。
「はい」
それから二人でコーヒーを飲んだ。
朝食が終わるころには、サミュエルは昨日より少しだけよく喋るようになっていた。
湖へ行くかどうかは聞かなかった。
よりみちは湖畔の宿ではない。湖までは歩いて十五分かかる。
行きたければ行けばいいし、行かなくてもいい。
宿屋は、客の人生を決めない。
サミュエルは十時前にチェックアウトした。
直人が玄関まで見送ると、サミュエルは大きなバックパックを背負って振り返った。
「ありがとうございました」
「東京まで気をつけて」
「はい」
少し迷ってから、サミュエルは言った。
「父に電話します」
直人はうなずいた。
「そっか」
それだけだった。
サミュエルが出ていったあと、直人は朝食の皿を片づけた。
テーブルの上に、小さく折った紙が残っていた。
英語で三行書いてあった。
Thank you for the coffee.
I still don’t know what I will do.
But I will call my father.
直人は紙をしばらく見てから、カウンターの引き出しにしまった。
皿を洗っていると、窓の外が少し明るくなった。
霧がほどけ始めていた。
直人は手を止めた。
雲の向こうから、富士山の稜線がゆっくり現れた。




