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第21話 元気な女性

一月の終わりの土曜日、飯島香織は三時ちょうどに来た。


小柄な女性で、三十代の終わりくらいに見えた。紺色のコートを着て、小さなキャリーケースを引いていた。


「こんにちは。飯島です。通りから、看板を見落としちゃって」

「少し奥に入ってますからね」

「看板、もう少し大きくするといいですね」


直人が宿泊者カードを出すと、飯島は手袋を外しながら食堂を見回した。


「きれい。写真より広く見えますね」

「ありがとうございます」

「朝ごはんもここですか」

「はい。七時から九時までです」

「じゃあ七時に。旅行のときくらい早く起きないと」


書き終わったカードと一緒に、ペンが戻ってきた。


直人は三号室の鍵を渡し、浴場の利用時間を説明した。


「男女入れ替えで、女性は夕方六時から夜九時半まで、朝は六時半から九時までです」

「今は入れないんですね」

「はい。女性は六時からなんです」

「じゃあ、先にご飯を食べてきます」


飯島は鍵についた木の札を手のひらにのせた。


「これ、かわいいですね」


その声は、さっきまでより少し高かった。


*


五時過ぎ、飯島が食堂へ下りてきた。


窓際では二号室の女性が地図を見ていた。


昨日から二泊している客で、直人との会話はいつも短かった。出かけるときに挨拶をして、戻ると会釈をする。朝食には、本を持ってきていた。


「明日、どこか行くんですか」


飯島が隣のテーブルから声をかけた。


女性は顔を上げた。


「まだ、決めてなくて」

「車ですか」

「バスです」

「私も、ここではバスです。車があると便利ですよね、この辺」


女性は小さくうなずいた。


「今日は、どこか行ってきたんですか」

「湖の向こう側を、少し歩いてきました」

「あ、私も美術館の近くまで行きました。手作りのお皿を売ってるところがあって」

「そうなんですか」

「見るだけのつもりが、買っちゃって。お皿とか、好きですか?」

「見るのは、好きです」

「じゃあ、いいかも。陶芸の体験もできるところなんですけど、買うだけでも大丈夫で」


飯島は椅子を少し寄せ、地図をのぞいた。


「この辺です。私も最初、ちょっと通り過ぎちゃって」


女性の指が、地図の折り目をなぞっていた。


本当は、一人で見たいのではないか。


直人は拭いていたカップを棚に戻した。


「バスの時刻表もありますよ」


カウンターの下から一枚出し、女性に渡した。


「ありがとうございます」


女性は地図に時刻表を挟んだ。


「お部屋でゆっくり見ていただいても」

「はい」


女性が立つと、飯島は椅子を引いた。


「引き止めちゃって、ごめんなさいね」


女性は首を振り、地図を持って食堂を出ていった。


飯島は今度はカウンターの方へ椅子を向けた。


「夕飯、どこかおすすめあります?」


直人は周辺の店を載せた紙を広げた。


*


八時半ごろ、玄関の戸が開いた。


「ただいま戻りました」


飯島はコートを着たまま、食堂をのぞいた。


「おいしかったです。教えてもらったところ」

「よかったです」

「隣のおじさんが、これも食べなって漬物くれて」


直人が笑うと、飯島も笑った。


食堂へ入ってきた飯島は、カウンターの端で足を止めた。


「これ、どこで買ったんですか」


小さな木彫りを見ていた。


「ネパールです」

「旅行で?」

「仕事で。昔、国際協力の仕事をしていて」

「JICAとか?」

「JICAにもいました。そのあと、開発コンサルタントの仕事も」


飯島はコートを脱ぎ、腕にかけた。


「私、学生のとき、協力隊に行きたかったんです」

「そうなんですか」

「でも、先に教員になっちゃって。三年くらい働いてから考えようと思ってたら、もう十五年」


直人は台拭きを畳んだ。


「学校の先生なんですね」

「中学校です。英語」

「私も、中学校にいました。社会科ですけど」


飯島は直人の顔を見た。


「えっ。国際協力の仕事のあとに?」

「あとというか、合間にですね」

「ちょっと待って。何歳で先生になったんですか」


直人が答えると、飯島はコートを椅子の背にかけた。


「座ってもいいですか」

「どうぞ」


直人は湯を沸かした。


「お茶、飲みます?」

「いただきます」


一杯出したら、明日の支度に戻ろうと思った。


飯島は、教員になる前に一年間カナダへ留学したことを話した。英語が通じると思って行ったのに、最初の一か月はほとんど聞き取れなかったという。


「分かったふりして、よく笑ってました」

「笑うタイミング、合いました?」

「たぶん合ってないです。ホストマザーに、今は笑うところじゃないって言われたことあります」


直人は急須に湯を注いだ。


それから、学校以外で働くことについて聞かれた。


どんな仕事があるのか。英語を使うだけでなく、自分に何ができるのか。教員になるとき、また大学へ通ったのか。


直人が話している間、飯島は湯飲みを持ったまま聞いていた。


「学校、辞めたいんですか」


ひと通り答えてから、直人は聞いた。


「ううん。学校は好きです」


飯島はすぐに答えた。


「来年の子たちも気になるし。ただ、ほかのこともやってみたかったなって。たまに思うんです」


まだできますよ、と言いかけた。


自分ができたからといって、この人にもできるとは限らない。


直人は急須を持ち上げた。


「もう少し、飲みます?」

「お願いします」


飯島は湯飲みを差し出した。


「でも、始めるとしたら、また何も分からないところからですよね」

「そうですね」

「今なら、学校で分からないことって、そんなにないんですけど」


直人は二つの湯飲みにお茶を足した。


やがて、飯島はカナダで同じ家に住んでいた韓国人の学生の話を始めた。二人でバスを乗り間違え、知らない町まで行ったという。


「それで?」

「帰りのバスが、もうなくて」


そのとき、廊下で浴場の戸が閉まった。


直人は時計を見た。九時近くになっていた。


「あ、ごめんなさい。もうこんな時間」


飯島が椅子から立った。


「お風呂、まだ入ってなくて」

「九時半までですので、まだ大丈夫ですよ」


飯島はコートを持ち、湯飲みをカウンターまで運んだ。


直人は片づけを再開した。


台拭きは、畳んだところに置いたままだった。


*


翌朝、飯島は七時に下りてきた。


直人がじゃがいもとチーズのオムレツを皿にのせると、キッチンの方まで顔を向けた。


「いい匂い。これ、朝から作ってるんですか」

「じゃがいもだけ、先に火を通してあります」

「そっか。うちでもできそう」


二号室の女性が来たのは、その十分ほどあとだった。


本は持っていなかった。


「おはようございます」


飯島が声をかけると、女性は挨拶を返し、隣のテーブルに座った。


直人が皿を置くと、女性は飯島の方を見た。


「昨日言ってたお店、調べてみました」

「お皿の?」

「はい。先にそこへ行って、それから湖を歩こうと思います」


飯島はバッグからスマートフォンを出した。


「これ。私が買ったの」


女性が椅子を少し動かした。


画面には、青い皿が写っていた。


「この縁、いいですね」

「そうなの。ちょっと曲がってて」

「手で作った感じが」

「そうそう。ほかのもみんな違って」


直人はコーヒーを注いだ。


女性は画面を指さして、何か尋ねていた。飯島が写真を大きくすると、顔を寄せて見ていた。


「お皿を見たあと、近くでお昼も食べられますよ。私、何軒か気になるお店があって」


直人はポットを置き、口を開きかけた。


「聞いてると、もう一泊したくなっちゃいますね」


女性が笑った。


「確かに。私、すぐ詰め込んじゃうんですよね」

「昨日も?」

「そう。最後はキャリーケース抱えて、ちょっと走っちゃった」


女性が声を立てて笑った。


直人はポットを持ち直し、空いていた飯島のカップにコーヒーを足してから、キッチンへ戻った。


オムレツを食べ終えるころ、二人はまた皿の話をしていた。


*


飯島がチェックアウトしたのは九時過ぎだった。


「お世話になりました。朝ごはんもおいしかったです」

「ありがとうございます」

「さっきの方、お皿を買ったら写真送ってくれるって」


飯島はキャリーケースの持ち手を伸ばした。


「あと、看板。やっぱりもう少し大きいといいと思います。駅から歩いてくる人には」

「考えてみます」


直人は玄関の戸を開けた。


外の空気が足元に入ってきた。飯島は首に巻いたマフラーをコートの中へ押し込んだ。


「今日は、どちらへ?」

「大石公園まで行ってみようと思います。昨日は、美術館の辺りまでだったので」


飯島はキャリーケースを引き寄せ、直人を見た。


「昨日、楽しかったです。今度は協力隊の話も聞きたいな」

「私、隊員ではなかったので、話せる範囲でよければ」

「あ、そうだった。職員の方でしたね」


飯島は笑った。


「カナダの話も、まだ途中でしたね」

「何の話でしたっけ」

「バスがなくなったところで」

「ああ、あれ。結局、知らない人の家に泊めてもらったんです」


直人は飯島を見た。


「どうやって?」


飯島が口を開きかけた。


「これ、長くなるんです」

「じゃあ、また今度」

「また来てもいいですか」

「もちろん」


飯島はキャリーケースの持ち手を握った。


「次は、看板を見落とさないと思います」

「大きくしておきます」

「ほんとに?」


直人は笑った。


「考えておきます」


二人の後ろでは、朝の日が差す食堂に、まだコーヒーの香りが残っていた。

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