第20話 何もしない日
杉浦は、小さなリュック一つで来た。
四十歳くらいに見えた。紺色のダウンジャケットを着たまま、宿泊者カードを書いている。二泊の予約だった。
「駅から歩いてきました」
「寒かったでしょう」
「歩いてるうちは、そうでもなかったです」
ペンを置くと、杉浦は受付の横にある周辺の地図を見た。
「明日は、どこか行かれるんですか」
「いや。今回は、何もしないつもりで来たので」
直人は鍵を渡した。
「年末まで忙しくて。家にいると、結局いろいろしちゃうんですよね」
「そうですか」
「二日くらい、ぼーっとしようと思って」
杉浦は鍵を受け取った。
「湖は、あっちですか」
「はい。歩いて十五分くらいです」
「この辺、湖に沿って歩けます?」
「歩けますよ」
「途中でご飯を食べられるところは」
「あります。地図、持っていきますか」
「お願いします」
直人は一枚取り、食事のできる店に丸をつけた。
杉浦は店の名前をスマートフォンに入れ、営業時間を確かめてから、地図を持って階段を上がった。
そのあと、もう一人の客が来た。
西条という女性だった。五十代くらいで、こちらも二泊だった。
部屋へ荷物を置くと、食堂へ下りてきた。
「ここに座っていてもいいですか」
「どうぞ」
西条は窓際の席に座った。バッグから文庫本を取り出し、挟んであった栞を抜いた。
直人が夕食の店を案内しようと声をかけるまで、ページをめくるほかには、ほとんど動かなかった。
翌朝、杉浦は七時半に食堂へ来た。
西条はすでに朝食を食べ終え、コーヒーを飲んでいた。テーブルには、昨日の文庫本が置いてある。
直人は厚く切ったパンを焼き、バターを溶かしたフライパンでスクランブルエッグを作った。ふんわりとした卵を皿に盛り、焼いたソーセージを添えた。
杉浦はパンに卵をのせて食べた。
「昨日、湖まで行きました」
「夕方ですか」
「はい。暗くなるの、早いですね」
「今は早いですね」
「もう少し歩きたかったんですけど、戻ってきました」
直人はコーヒーを注いだ。
杉浦は食べながら、ときどき窓の外を見た。小学校の屋根の向こうに、富士山が見えていた。
食べ終えると、リュックから地図を出した。
「今日、何しようかな」
直人は空いた皿を下げた。
「何もしないんじゃなかったですか」
「そうなんですけど」
杉浦は笑った。
「朝、普通に起きちゃったし」
杉浦が地図を広げると、西条がふと顔を上げた。目が合った。
「朝から読書、いいですね」
「今日は、これを読んで過ごそうと思って」
「ここで?」
「はい。家だと、なかなか読めなくて」
杉浦は文庫本を見た。
「僕も持ってきたんですけどね」
リュックの口を開きかけ、そのまま閉じた。
「でも、天気いいしな」
直人にも、その気持ちは分かった。
大学を卒業したあと、パラオへ行った。
帰る日を急ぐ理由はなかった。それなのに、着いて間もなく、帰りの便を早めた。
働き始める前だった。ホテルに着いたころには、もう財布の中が気になっていた。かといって、出かけずにいれば、時間が長かった。
何もしていなかったわけではない。
船で離島へ渡った。しゃこ寿司を食べた。タクシーの運転手と仲良くなり、島を案内してもらった。町もよく歩いた。ディナークルーズに参加して、ロシア人とテキーラを飲んだ。
楽しかったことは、今も思い出せる。
プールサイドでは、西村京太郎を読んでいた。
ページの中では、日本の列車が走っていた。顔を上げると、まだ同じプールがあった。
続きを読み、腹が減ると食事に出た。戻ってくると、また本を開いた。
ただ、あのころの落ち着かなさは、旅先だけのものでもなかった。
日本に戻っても、翌朝から通う場所はなかった。
平日の昼に町を歩くと、昼休みを終えた人たちが建物へ戻っていった。直人は、その横を通り過ぎた。
働きたいと思った。
忙しいと言っている人が、少しうらやましかった。
「ここまでだと、どれくらいですか」
杉浦が地図を指していた。
直人はカウンターを出て、隣に立った。
「歩いて一時間くらいですかね。途中で止まらなければ」
「この先にも道はあります?」
「ありますよ。湖沿いに」
「じゃあ、行けそうならもう少し」
直人は道に沿って線を引いた。
杉浦は地図を折り、リュックにしまった。
西条は直人にカップを差し出した。
「コーヒー、もう一杯いただけますか」
杉浦が出かけたあと、直人は別の客を見送った。
二階へ上がり、シーツと枕カバーを外した。抱えて下り、洗濯機へ入れた。
洗っている間に部屋を掃除した。廊下まで掃除機をかけ、窓を閉めたところで、洗濯機が止まった。
一階へ下りると、西条が顔を上げた。
「忙しいですね」
「今日は一部屋だけなので、そうでもないです」
直人は洗濯物を取り出しに行った。
干し終えて食堂へ戻ると、西条はまた本を読んでいた。
直人はカウンターの中で、翌朝の支度を始めた。卵の数を確かめ、足りないものをメモに書いた。
昼前に西条が出かけた。
その間に直人も昼食を済ませ、買い物へ行った。帰ると、窓際に西条の姿があった。朝と同じ席で、文庫本を開いていた。
牛乳と卵を冷蔵庫へ入れ、洗濯物を取り込んだ。
シーツをたたみ、棚にしまった。食堂へ戻るたびに、西条の本の左側が少しずつ薄くなっていた。
夕方、玄関の戸が開いた。
杉浦だった。
帽子を取り、手袋を外した。頬が赤くなっていた。
「お帰りなさい」
「ただいまです」
食堂へ来ると、杉浦は西条を見た。
「ずっとここに?」
「お昼は食べに出ましたよ」
西条は栞を挟んで本を閉じた。
杉浦は隣のテーブルに座り、ダウンジャケットのファスナーを下げた。
直人が水を持っていくと、杉浦は半分ほど続けて飲んだ。
「結構歩きました?」
「教えてもらったところより、先まで行っちゃいました」
「あそこから、まだ?」
「道があったので。帰りはバスでもいいと思ってたんですけど、結局歩いて」
西条が笑った。
「どこまで行ったんですか」
杉浦は地図を出した。
何度も開いたらしく、折り目が白くなっていた。西条は本をテーブルに置き、地図をのぞき込んだ。
「ここでお昼を食べて。そのあと、こっちへ」
杉浦の指が、直人の引いた線から離れた。
「あ、この辺で富士山がよく見えました」
スマートフォンを出し、写真を探した。
西条は画面をのぞき込んだ。
「きれいですね」
「この少し前まで、雲がかかってたんですけど。歩いてたら見えてきて」
次の写真は、昼に食べたものだった。
「これがお昼です」
「おいしそう」
「おいしかったです。店が見つからなかったらどうしようと思ってたので、余計に」
直人は空になったコップに水を足した。
「退屈しませんでした?」
杉浦が、西条の本を見て聞いた。
「続きが気になっちゃって。こんなに読んだの、久しぶりです」
「そうですか」
「そちらは、楽しかったですか」
「はい。かなり。歩きすぎましたけど」
杉浦はテーブルの下で、片足を伸ばした。
西条は、もう一度地図を見た。
「明日も歩くんですか」
「駅まで行く前に、少し。今日通らなかった道があるので」
「まだ歩くんですね」
「足が大丈夫なら」
杉浦は本を見た。
「あれ、朝と違う本ですか」
「さっき読み終わったので」
「二冊目?」
「はい」
杉浦は笑った。
「僕は一冊目も開いてないです」
直人は二人のコップを見た。
「温かいもの、飲みますか」
「コーヒー、お願いします」
杉浦が言った。
西条は本に手を伸ばし、少し考えてから引っ込めた。
「私も、もう一杯」
直人は湯を沸かした。
杉浦がスマートフォンを差し出した。
「もう一枚、こっちもきれいだったんです」
西条は椅子を寄せた。閉じた本の上に、折りたたんだ地図が置かれた。




