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第18話 ファンの気持ち

午後三時を少し過ぎたころ、玄関の扉が開いた。


「先生」


直人は顔を上げた。


女が一人、キャリーケースを引いて立っていた。


一瞬、分からなかった。


「松原です」

「ああ」

「今の間、絶対分かってなかったでしょ」

「分かったよ」

「うそ」


松原美月は笑った。


中学生だったころより髪は長くなっていた。顔の印象も当然変わっていた。それでも、笑ったときの感じは覚えていた。


「ほんとに宿やってるんだ」

「インスタで見てたでしょ」

「見てたけど。実際見ると変な感じ」


美月は玄関の中を見回した。


「先生が受付にいる」

「宿だからね」

「学校より似合ってるかも」

「それは褒めてる?」

「たぶん」


直人は宿泊者カードを差し出した。


美月はペンを取った。


名前の欄に、松原美月と書く。


その字を見て、直人は少しだけ昔を思い出した。


一年生のころから、名前だけは知っていた。


成績のいい生徒だった。


テストの点数や成績一覧の中で、何度もその名前を見ていた。


ただ、顔は知らなかった。


二年生になっても授業は担当せず、美月は隣のクラスにいた。


そのころから、教室の近くで顔を合わせると、よく向こうから声をかけてきた。


最初は、誰だか分からなかった。


「先生、覚えてます?」


美月が顔を上げた。


「何を?」

「私、結構話しかけてたでしょ」

「話しかけてたね」

「最初、誰だか分かってなかったよね」

「まあね」

「ひど」

「授業持ってなかったし」

「私は先生のこと知ってたのに」

「まあ、先生だからね」

「そういうことじゃなくて」


美月はそう言って、また宿泊者カードに視線を戻した。


直人は鍵を渡した。


「二号室」

「富士山見える?」

「見えるよ」

「よかった」


美月はキャリーケースを引いて階段を上がっていった。


*


夕方、食堂へ下りてきた。


直人がコーヒーを淹れていると、カウンターの前に座った。


「飲む?」

「飲む」

「ブラック?」

「砂糖ほしい」


直人はコーヒーと砂糖を置いた。


美月は二本入れた。


「二本入れるんだ」

「甘いの好きだから」

「そうなんだ」


美月はコーヒーを混ぜた。


しばらく、昔の学校の話をした。


誰が結婚したとか。


誰が地元に残っているとか。


直人が忘れかけていた名前もいくつか出た。


「みんな今でも会うの?」

「たまに」


美月はコーヒーを混ぜながら言った。


「私あんまり行けないけど」

「遠いから?」

「まあ、それもある」


美月は中学を卒業したあと、県外の高校へ進んだ。


家庭の事情だったらしいが、詳しいことは知らない。


「高校、どうだった?」

「普通」

「普通か」

「友達もいたし。楽しかったよ」

「ならよかった」

「でも」


美月はスプーンを置いた。


「最初のころは、みんなのインスタ見るのちょっと嫌だった」


直人は何も言わなかった。


「同じ高校の子たちで文化祭とか、放課後とか。別に私も友達いたんだけどね」

「うん」

「なんか、自分だけいなくなった感じがして」


美月は笑った。


「もう昔の話だけど」


直人は少しだけ頷いた。


「でも、そっちでも友達はできたんでしょ」

「できたよ。普通に楽しかったし」

「ならよかった」


美月はコーヒーを一口飲んだ。


「でも中学は中学で楽しかったな」

「そう?」

「先生の授業も、思ってたのと全然違ったけど」

「あ、それ言ってたね」

「もっと先生がずっとしゃべる授業かと思ってた」

「そんなにずっとしゃべれないよ」

「生徒に教科書まとめさせて発表させるし」

「楽だったよ」

「最低」


美月が笑った。


直人も笑った。


「でも、美月がちゃんとやってたのは覚えてるよ」

「え、そうなの?」


美月は少し嬉しそうな顔をした。


「一番覚えてるのは、アイドルのやつ。センター決めるとかいう」

「あった」


直人は少し考えた。


「なんか最後、変なこと言ったんだよね。何だっけ」


美月は答えを待つように直人を見た。


「公民の授業だったからさ、人気投票とか、実力とか、それっぽいことを検討して」

「そうそう」

「で、最後が……」


直人は記憶をたどった。


「何だっけ。それまでちゃんとしてたのに、最後だけ変なところに着地したんだよね」


美月が笑った。


「覚えてないじゃん」

「何て言ったんだっけ」


美月は少し間を置いた。


「ファンの気持ちに寄り添って決めよう」


直人は笑った。


「ああ、それだ」

「また笑った」

「だって、そこまでいろいろ考えて、最後それだったから」

「ちゃんとした結論じゃん」

「まあ、そうだけど」

「先生もそう言ってたよ」

「覚えてない」

「私は覚えてる」


美月は砂糖の溶けたコーヒーを飲んだ。


「私、先生のファンだったし」


直人は美月を見た。


「それは知ってる。言ってたから」

「結構ちゃんとファンだったよ」

「そっか。ありがとう」

「軽いなあ」


直人はコーヒーを一口飲んだ。


教師だったころ、生徒とはできるだけ話したつもりだった。


廊下でも、教室でも、休み時間でも。


美月とも何度も話した。


けれど、何を話したのかまで覚えていることは少ない。


授業もそうだった。


何を説明したのか。


誰がどんな発表をしたのか。


忘れてしまったことの方が多い。


それでも、美月は覚えていた。


センターの決め方も。


直人が笑ったことも。


直人自身が忘れていた言葉まで。


「先生」

「ん?」

「三年のとき、私ってどんな生徒だった?」


直人は少し考えた。


「よくしゃべる」

「それだけ?」

「ちゃんと考えて、自分の言葉で話す子」


美月は一瞬黙った。


それから、少しだけ笑った。


「ならいいや」


*


翌朝。


七時半を過ぎたころ、美月が食堂へ来た。


直人は焼き上がったクロックムッシュを皿にのせた。パンの間から、溶けたチーズが少しはみ出している。


「先生、こんなの作るんだ」

「失礼だね」


美月はナイフを入れた。


「学校にいたとき、料理するイメージなかった」

「学校で料理しないからね」

「まあ、そうだけど」


一口食べて、美月が顔を上げた。


「おいしい」

「そうか。よかった」

「なんか悔しい」


直人は笑った。


窓の向こうには富士山が見えていた。


昨日より雲が少なかった。


「今日、湖見てから帰る」

「いいんじゃない」

「先生は?」

「仕事」

「宿の?」

「宿の」


美月は砂糖の入ったコーヒーを一口飲んだ。


「先生って、ほんとに先生じゃなくなったんだね」


直人は少し考えた。


「そうだね」

「でも、あんまり変わってない」

「どっち」

「分かんない」


美月は笑った。


食べ終わったあと、美月がスマートフォンを取り出した。


「写真撮ろう」

「何の?」

「先生と」

「なんで」

「いいから」


美月は席を立って、直人の隣に来た。


スマートフォンを持った手を伸ばす。


「先生、もうちょっとこっち」


直人は美月の方へ寄った。


「富士山入ってる?」

「入ってる。先生よりちゃんと」


シャッターの音がした。


美月はすぐに画面を見た。


「あ、だめ。もう一回」

「何が?」

「私がだめ」

「普通じゃない?」

「先生には分からない」


美月は髪を少し直して、もう一度スマートフォンを構えた。


「今度はちゃんと笑ってね」

「はいはい」

「それ笑ってない」


美月が笑った。


つられて直人も笑ったところで、もう一度シャッターの音がした。


「今のはいい」


美月は満足そうに画面を見た。


その日の午後。


カウンターに置いていたスマートフォンが震えた。


美月からだった。


朝撮った写真が一枚送られてきていた。


美月が笑っていて、その隣で直人も笑っていた。


その向こうに、窓越しの富士山が写っていた。


続けてメッセージが届いた。


――また泊まりにきます!


直人は写真を開いたまま、しばらく見ていた。


それから、保存した。

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