第17話 遠回り
夕方、四号室の男がカウンターに地図を広げた。
二十代半ばくらいだった。
小さなリュック一つで来て、チェックインのときから何度もスマートフォンを見ていた。
「明日なんですけど」
「はい」
「朝、ロープウェイ乗って、五重塔行って、忍野八海寄って、山中湖まで行こうと思ってます」
「ああ、忠霊塔ね」
「そうです、そこです」
男はスマートフォンを操作した。
「山中湖から四時くらいのバスで新宿に戻ります。夜、友達と会うので」
「結構入れたね」
「せっかく来たので、できるだけ見たくて」
直人は笑った。
その気持ちはよく分かった。
社会人になって三年目だった。夏季休暇と週末をつなげて、ヨーロッパへ行った。
マドリード、バルセロナ、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ。
ナポリまで行ったら、ポンペイの遺跡にも足を伸ばしてみたかった。
今なら、そんな旅程を立てた人には少し減らした方がいいと言う。
当時の直人には、減らすという発想がなかった。
持っていたガイドブックも、それぞれの国のものではなかった。
『地球の歩き方 ヨーロッパ』が一冊。
「そんなざっくりしたので大丈夫なの?」
今の妻に、出発前そう言われた。
そのころは、まだ付き合ってもいなかった。
「大丈夫でしょ」
「泊まるところだけは先に決めといた方がいいよ」
それも、全部は決めなかった。
マドリードに着いた初日は、空港で荷物が出てこなかった。
手続きをして、着替えも何もないまま宿へ向かった。
翌日、街を歩いて戻ってくると、フロントの横に見覚えのあるスーツケースが置かれていた。
今思えば、翌日によく届けてくれたものだと思う。それでも、そのころの直人には、それくらいなら旅行の一部だった。
イタリアで泊まる宿は、バルセロナの宿にあった共用のパソコンを借りて探した。
画面が一つ開くのにも時間がかかる時代だった。
バルセロナから、列車でミラノへ行くつもりだった。
ところが、駅で訊ねてみると、思っていたようには行けなかった。
その日に乗れるミラノへの直行列車はなかった。
結局、途中で列車を乗り継ぎ、夜行列車でパリへ向かった。
夜行列車は好きだった。
夜に乗り、列車の走行音を聞きながら眠る。
寝ている間に、次の街に運ばれる。
朝になると、荷物を下ろす音や、降りる支度をする人の気配で目を覚ました。
パリに着いたのは朝だった。
そこへ行く予定はなかったのだから、当然ホテルも取っていない。
荷物を預け、ガイドブックを片手に一日歩いた。
何を食べたのかは覚えていない。
ただ、よく歩いた。
予定になかったわりには、ずいぶんちゃんとパリを見たと思う。
夜になって駅へ戻り、また夜行列車に乗った。
今度こそ、ミラノへ向かった。
翌朝、四号室の男は六時半ごろ食堂をのぞいた。
「おはようございます」
「早いね」
「ちょっと湖、見てきます」
直人はまだ朝食の支度をしていた。
「七時から朝ごはんだけど」
「それまでには戻ります」
男は上着を着て、玄関を出ていった。
七時を少し過ぎても戻ってこなかった。
よりみちは、湖畔の宿ではない。湖まで行って戻るだけでも、三十分はかかる。
直人はトーストを焼くのを待った。
七時半を過ぎたころ、玄関が開いた。
「すみません」
男は少し息を切らしていた。
「結構歩いた?」
「はい。大橋の方まで行っちゃいました」
上着を脱いで、食堂の椅子に座った。
「朝、気持ちいいですね」
「今日は天気いいからね」
直人はハムとチーズを挟んだトーストを皿にのせた。
男はまだ熱いパンをかじりながら、スマートフォンを開いた。
「ロープウェイ、八時半からか」
男は時計を見た。
画面を何度か動かした。
「これ乗ってから五重塔行くと、結構きついな」
「全部行くんでしょ」
「そのつもりだったんですけど」
コーヒーを一口飲んだ。
「ロープウェイ、もういいかな」
「いいの?」
「朝、富士山も見えたし、湖も歩けたので」
男は窓の外を見た。
「なんか、もう少しゆっくりしていこうかなって」
直人はコーヒーを注ぎ足した。
「忠霊塔は?」
「行きます。忍野八海も。山中湖も行きますけど、向こうではそんなに回らなくてもいいかな」
「四時のバスだっけ?」
「はい。新宿で友達と会うので」
男はスマートフォンを伏せた。
「昨日は、全部見ないともったいないと思ってたんですけど」
直人は何も言わなかった。
男は残っていたパンを食べた。
朝食を終えると、四号室へ戻った。
しばらくして、小さなリュックを背負って下りてきた。
「お世話になりました」
「気をつけて」
「今日は、ちょっとゆっくり行きます」
男は笑った。
玄関を出て、坂を上っていった。
昨日より、少しゆっくり歩いていた。
直人は、しばらくその背中を見ていた。
パリで何を見たのか、細かいことはもうあまり覚えていない。
ノートルダム大聖堂。
凱旋門。
エッフェル塔。
それから、ずいぶん歩いたこと。
直人は食堂に戻り、男が使った皿を片づけた。




