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第16話 恵比寿

正月が過ぎ、宿は少し静かになっていた。朝は庭の土が白く凍り、昼になっても日陰には薄い氷が残った。


その日の客は一人だった。


夕方、久保という女がチェックインした。三十歳くらい。住所は東京だった。


宿泊者カードを書き終え、直人が二号室の鍵を取ろうとしたとき、久保が受付の棚を見た。


「これ、何ですか」


黒い木彫りの人形だった。


「恵比寿です」


直人はそう答えてから、人形を見た。


「……だったかな」

「違うんですか」

「何回か調べてるんですけど、いつも忘れるんですよ」


直人はスマートフォンを取り出した。


七福神、坊主頭、しゃもじ。


そう打ってから、しゃもじではなかったかもしれないと思った。しゃもじのようなものだったが、それが何だったのかはよく分からない。ただ、それが以前に折れたことだけは覚えていた。


画像を見比べる。


「あ、布袋だ」

「ホテイ?」

「布袋です」

「恵比寿じゃない?」

「全然違いました」


久保が笑った。直人も笑った。


「二十五年くらい持ってるんですけどね」

「そんなに?」

「二十四のときに買ったんです」


久保はもう一度、人形を見た。


「どこで?」

「ネパールです」

「ネパール?」

「初めての海外出張で」


二十四歳の一月だった。カトマンズの朝も思っていたより寒かった。


どこの寺だったかは、もう覚えていない。仕事の合間に立ち寄った寺院の近くに、小さな露店が並んでいた。


木彫りの仏像や動物、アクセサリー、布や小物が所狭しと置かれていた。その中に、七福神の一人がいた。


少なくとも、直人はそう思った。


なぜそれを選んだのかは覚えていない。日本で馴染みのある神様がネパールにいるのがおかしかったのかもしれない。値段が手頃だったのかもしれない。ただ何となく、初めての海外出張で、何か一つ買って帰りたかっただけかもしれない。


「仕事って、何してたんですか」

「国際協力です」

「へえ。二十四歳で?」

「はい。何も分かってなかったですけど」


初めての出張では、本当に何をしていいのかよく分からなかった。


周りの人の後ろをついて歩き、会議では知らない言葉をノートに書いた。ホテルへ戻ってからノートを開き、何の話だったのかを考えた。


自分だけ何も分かっていないような気がしていた。たぶん、実際かなり分かっていなかった。


それでも出張は終わった。帰国すると、木彫りだけは鞄の中に入っていた。


その後、何度か職場が変わった。


新しい机に置くとき、これは何だったかと調べたことがある。異動で荷物を片づけるときにも調べた。そのたびに分かって、そのたびに忘れた。


学校で働き始めたときも、一度、職員室の机の上に置いた。最初のころはパソコンの横にいた。


そのうち、提出されたプリントや会議の資料が重なり、ファイルが増えた。気づくと人形を置いておく場所がなくなり、引き出しにしまった。


いつからか、しゃもじのようなものも折れていた。落としたのか、引っ越しの途中で折れたのか、それも覚えていない。


「ずっと持ってるんですね」

「そうみたいです」


大事にしてきたつもりはなかった。箱に入れたこともないし、きれいに磨いたこともない。


引っ越しのたび、ほかの小物と一緒に段ボールへ入れた。なくしてもおかしくなかった。


それでも、なくならなかった。


直人は二号室の鍵を久保に渡した。


「朝食は七時からです」

「ありがとうございます」


久保は木彫りをもう一度見てから、階段を上がっていった。


翌朝、久保は七時半ごろ食堂へ下りてきた。


直人は薄く切ったじゃがいもをフライパンに並べ、その上から溶いた卵を流した。端が固まってきたところでチーズをのせ、半分に折る。


皿に移すと、溶けたチーズが少しだけはみ出した。厚切りのトーストにはバターをのせ、小さなカップに野菜のスープを添えた。


「おいしそう」

「熱いので気をつけてください」


久保はオムレツを切った。中からチーズが伸びた。


「これ、じゃがいも入ってるんですね」

「はい」

「朝からちゃんとしてる」

「宿なので」


久保が笑った。


直人はコーヒーを淹れた。窓の外はよく晴れていた。


「富士山、見えました?」

「見えました。部屋から」

「今日はよく見えますね」


久保はパンを一口食べ、受付の方を見た。


「昨日の」

「はい?」

「布袋」

「ああ」

「覚えてましたね」

「今日はまだ」


久保が笑った。直人も受付の棚を見た。


黒い人形は、昨日と同じ場所に座っていた。


「二十五年って、長いですね」


直人は少し考えた。


「長いですね」


二十四歳だった自分のことは、もうあまり覚えていない。あのころ何を心配していたのか。何になろうとしていたのか。初めての出張を終えて、次にどこへ行くつもりだったのか。


覚えていないことの方が多かった。


「でも、これ見たらネパールのこと思い出すんじゃないですか」


直人は棚の人形を見た。


「普段は、あんまり」

「そうなんだ」

「昨日みたいに聞かれると、思い出しますけど」


久保は「ふうん」と言って、コーヒーを飲んだ。


八時過ぎ、久保は荷物を持って食堂へ降りてきた。


「お世話になりました」

「ありがとうございました」


玄関を出る前に、久保は受付の棚を見た。


「布袋ですよ」

「はい」

「忘れないでください」

「たぶん忘れます」


久保は笑って、外へ出た。


直人は棚の布袋を手に取った。黒い木は、離れて見るとそれほど古そうには見えなかった。近くで見ると、細かな傷がいくつもあった。


折れたところを指でなぞった。


布袋。


今度こそ覚えた気がした。


直人は人形を元の場所に戻した。


たぶん、また忘れる。

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