第15話 元日の朝
大晦日、よりみちは満室だった。
一号室には、小学生の子どもが二人いる家族。
二号室には外国人の夫婦。
三号室には若い男女。
四号室には一人旅の男が泊まっていた。
午後三時を過ぎるころから、順番に客がやってきた。
玄関には、小さなしめ飾りをつけてあった。直人が数日前、スーパーで買ったものだった。
「お正月ですね」
一号室の母親が言った。
「一応」
その横で、娘がしめ飾りを見上げた。
「これ、本物?」
「何が?」
「葉っぱ」
「たぶん」
「たぶんなの?」
母親が笑った。
夕方になると、それぞれの客が宿を出ていった。
夕飯を食べに行く家族。
直人に近くの店を聞いてから出かけた外国人夫婦。
三号室の二人は、コンビニの袋を提げて戻ってきて、そのまま部屋へ上がった。
四号室の男だけは、食堂の端でカップ麺を食べていた。
「大晦日、それでいいんですか」
「昼にほうとう食べたんで」
「じゃあ十分ですね」
「十分です」
夜九時を過ぎると、宿の中は少しずつ静かになった。
二階から、ときどき子どもの笑い声が聞こえた。どこかの部屋ではテレビがついているらしく、廊下へ出ると人の声がかすかに漏れていた。
直人は食堂を片づけた。
明日の朝に使う皿を出し、コーヒー豆を補充した。冷蔵庫の中を確認し、朝食の材料を手前に移した。
食堂の隅には、明日のために買っておいた丸餅がある。
直人は紙を一枚出した。
おもち ご自由にどうぞ
そう書いて、餅の横に置いた。
少し考えて、その下に小さく、
おしるこあります
と書き足した。
*
十一時を過ぎた。
直人は玄関の鍵を確認してから、食堂の照明を一つ消した。
二階から男の子の声が聞こえた。一号室の子どもたちは、まだ起きているらしい。
直人は、日付が変わるまで起きているつもりはなかった。
昔から、十二月三十一日だからといって、特別なことをする方ではない。
それでも部屋へ戻って布団に入ると、なかなか眠れなかった。
遠くで鐘の音が聞こえた。
スマートフォンを見ると、十一時五十五分だった。
あと五分なら、とそのまま画面を見ていた。
十二時になった。
何も起こらなかった。
直人はスマートフォンを伏せた。
「あけましておめでとうございます」
誰に言うでもなく、小さく言い、そして寝た。
*
翌朝、六時十分に目が覚めた。
目覚ましはまだ鳴っていなかった。
外はまだ薄暗い。
直人は顔を洗い、ダウンジャケットを着て、玄関の鍵を開けた。
食堂の暖房を入れる。
昨夜作っておいたおしるこの鍋を火にかけた。ホットプレートを出して、丸餅を用意する。
まだ焼かない。
コーヒーを淹れる準備をしていると、二階から足音がした。
二号室の外国人夫婦だった。二人とも厚い上着を着ている。
妻が、おはよう、と言った。
「おはようございます。あけましておめでとうございます」
二人も笑って、
「Happy New Year」
と言った。
夫が窓の外を見て、屋上へ行ってもいいかと聞いた。
「どうぞ。寒いですよ」
大丈夫だ、と夫が言い、二人は階段を上がっていった。
少しして、また足音がした。
今度は一号室の両親だった。
「おはようございます」
「おはようございます」
「屋上、行ってもいいですか」
「どうぞ。もう一組いますよ」
母親が階段の方を見た。
「子どもたち、どうする?」
「寝かせとこう。昨日十二時半まで起きてたし」
「あとで、初日の出見たかったって言わないかな」
「夜更かししたんだから、しょうがないでしょ」
「そうだけど」
「富士山なら、あとでまた連れてくればいいし」
二人も上がっていった。
窓の外を見る。
東の空が、わずかに明るくなっていた。
直人はコーヒー豆を挽こうと思ったが、手を止めた。
鍋を火から下ろして保温器に入れ、直人も階段を上がった。
*
屋上には四人がいた。
二号室の夫婦と、一号室の両親。
みんな東の空を見ていた。
「寒いですね」
一号室の父親が言った。
外国人の妻も、寒い、と日本語で言って笑った。
外国人の夫が南の方を見た。
まだ青黒い空の下に、富士山の輪郭が浮かび始めていた。
妻も振り返り、しばらく富士山を見た。
一号室の母親がスマートフォンを取り出した。
外国人の妻が、毎年初日の出を見るのかと母親に聞いた。
母親は簡単な英語で、今年だけ、と答えた。
妻は笑って、自分たちも同じだと言った。
空が少しずつ明るくなっていった。
四人とも、しばらく黙っていた。
直人も何も言わなかった。
やがて、東の空がひときわ明るくなった。
「あ」
誰かが言った。
光が差し、富士山の東側が赤く染まった。
外国人の夫がスマートフォンを構えた。一号室の母親も写真を撮った。
直人は腕時計を見た。
六時五十分。
「朝ごはん、七時からです」
四人が振り返った。
「おしるこもあります」
「おしるこ?」
「お正月なので。おもちもあります」
一号室の母親が笑った。
「それなら子ども、起きますね」
「たぶん」
直人は先に階段を下りた。
*
食堂へ戻り、おしるこの鍋を火から下ろして保温器に入れた。
ホットプレートの電源を入れる。
丸餅を六個並べる。
しばらくすると、餅の表面が膨らみ始めた。
一つが少し傾き、もう一つは真ん中からぷくりと持ち上がった。
七時を過ぎると、二号室の夫婦が食堂へ下りてきた。
妻がおしるこの入った保温器をのぞいた。
これか、と直人に聞いた。
「そうです。甘い小豆です」
直人は焼けた丸餅を一つ、器に入れた。その上からおしるこを注ぐ。
妻は両手で器を持った。
「熱いですよ」
妻は笑ってうなずいた。
やがて、四号室の男も下りてきた。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます」
男はホットプレートを見た。
「おもちあるんですね」
「正月なので」
「いいですね」
一号室の両親も下りてきた。
二人はコーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。
「そろそろ起こす?」
母親が言った。
「もう八時になるしね」
母親が二階へ上がった。
しばらくして、子どもたちが下りてきた。
男の子はまだ髪が寝ている。
「あ、おもち!」
紙を見つけて言った。
「あるよ」
「何個まで?」
「そこに書いてある」
男の子が読んだ。
「ご自由にどうぞ」
「そういうこと」
「じゃあ五個」
「食べきれないでしょ」
「じゃあ三個」
直人がホットプレートの餅を裏返した。
「まあ、常識の範囲で」
男の子は、もう一度紙を見た。
八時を少し過ぎたころ、三号室の二人が下りてきた。
女は髪をひとつにまとめ、男はまだ少し眠そうだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
二人は並んで食堂に入り、空いていた席に座った。
男がホットプレートを見た。
「あ、おもちある」
「ご自由にどうぞ」
「何個までいいんですか」
男の子が、おしるこを食べながらつぶやいた。
「常識の範囲で」
四号室の男が吹き出した。三号室の女もつられて笑った。
「もう」
母親が言った。父親は黙って笑っていた。
男の子はにやりとして、おしるこをもう一口食べた。
直人は焼けた餅を皿に移し、次の丸餅をホットプレートに置いた。
窓の向こうには、朝日に照らされた富士山が見えていた。




