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第14話 転職

十二月二十八日の午後、男が一人でチェックインした。


三十歳くらいに見えた。黒いダウンジャケットに、少し大きめのボストンバッグ。駐車場には練馬ナンバーの車が停まっている。


「小林さんですね」

「はい」


直人は三号室の鍵を渡した。小林は宿泊者カードに名前を書き、住所の欄に東京都内の住所を記した。


「今日は観光ですか」


何となく聞くと、小林は少し考えた。


「まあ、そんな感じです」


それ以上は聞かなかった。


窓の外には、午後の富士山が見えていた。冬になると、富士山は夏より近く見える。空気が澄んで、雪をかぶった輪郭がくっきりする。


「部屋からも見えますよ」

「そうなんですね」


小林は窓のほうを見た。


「きれいですね」


そう言ったわりには、写真は撮らなかった。


夕方、小林は食堂へ下りてきた。直人はカウンターで翌朝のパンを切っていた。


「この辺、夕飯食べるところありますか」

「ありますよ。何がいいですか」

「何でも」

「何でもが一番困るんですよね」


小林が少し笑った。


直人はカウンターの下から地図を出した。


「近くだと、和食の店が何軒かあります。ここはうなぎ屋さんですけど、焼き鳥とか、とり丼もおいしいですよ。ほうとうは、歩いていくにはちょっと遠いです」

「ほうとうはいいかな」

「山梨の人です?」

「北杜です」

「じゃあ、先に言ってくださいよ」


小林が笑い、地図を見ながら言った。


「明日、北杜まで帰るんです」

「実家ですか」

「はい」


少し間があった。


「一泊しなくても帰れるんですけどね」

「まあ、そうですね」


小林は地図を手に立ち上がった。


日が落ちると、県道の向こうまで急に暗くなった。


*


八時を過ぎたころ、小林が戻ってきた。


「どうでした」

「よかったです」


小林は食堂の端の席に座った。すぐに部屋へ戻るのかと思ったが、そのままスマートフォンを見ている。


直人はコーヒーを淹れた。自分の分だけ淹れるつもりだったが、もう一杯分の豆も量った。


「飲みます?」

「いいんですか」

「夜眠れなくなるタイプじゃなければ」

「大丈夫です」


直人は二つのカップをカウンターに置いた。小林は席を移り、カウンターの前に座った。


しばらく、二人とも何も話さなかった。外を車が一台通った。冬の県道は、昼間よりずっと静かだった。


「仕事、辞めたんですよ」


小林が突然言った。


直人はコーヒーを飲んだ。


「そうなんですね」

「十一月に」

「最近ですね」

「まだ親に言ってなくて」


直人はカップを置いた。


「なるほど」

「明日帰ったら、たぶん聞かれるんですよ。仕事どうだって」

「聞かれそうですね」

「毎年聞かれます」


小林は笑った。


「去年は普通に答えられたんですけどね」

「今年は答えがありますね」

「辞めた、って?」

「はい」

「それを言いたくないんですよ」

「じゃあ、言わなくてもいいんじゃないですか」


小林は直人を見た。


「いいんですかね」

「私に聞かれても」


小林が笑った。直人も笑った。


宿屋は、客の人生を決めない。


「転職先は?」

「まだです」

「じゃあ、それも聞かれますね」

「聞かれます」

「大変ですね」

「他人事ですね」

「まあ、他人なので」


小林は声を出して笑った。


しばらくしてから、窓の外を見た。もう富士山は見えなかった。


「辞めたこと自体は、別に後悔してないんです」

「はい」

「でも、親に説明するとなると、急に間違ったことしたみたいな気がしてくるんですよね」


直人は少し考えた。


「親って、そういうところありますよね」

「あります?」

「あります」


小林はコーヒーを一口飲んだ。


「先生だったんですよね」


宿の紹介を読んだらしい。


「はい。もうずいぶん前ですが」

「辞めたいって思ったこと、ありました?」

「辞めたい、まではなかったですね。良いことも悪いこともありましたけど」

「生徒に愚痴ったりは?」

「自分からは言わなかったですね」

「自分からは?」

「生徒が先生の文句を言ってたら、一緒に言うことはありました」

「それ、いいんですか」

「よくはないでしょうね」


小林が笑った。


「じゃあ、辞めるときは?」

「それは言いました」

「ちゃんと?」

「ちゃんと」


小林はコーヒーを見た。


「やっぱり、言ったほうがいいですかね」

「それは分かりません」

「自分は言ったのに?」


直人は笑った。


「生徒と親は違いますから」


小林も笑った。


*


翌朝、七時半ごろ小林は食堂へ下りてきた。


直人は、サラダとオムレツをのせた皿に、バターの染みたパンを添えた。


「コーヒーでいいですか」

「お願いします」


窓の外には、朝の富士山が見えていた。小林はパンを食べながら、何度かそちらを見た。


直人はコーヒーを淹れた。


小林は朝食を食べ終えると、食器を重ねた。


「今日、北杜ですよね」

「はい」

「道、凍ってるところあるかもしれないので気をつけて」

「分かりました」


小林は部屋へ戻り、十分ほどして荷物を持って下りてきた。チェックアウトを済ませたあとも、玄関で少し立っていた。


「昨日、ここ泊まらなくてもよかったんですよね」

「まあ、そうですね」

「そのまま北杜まで行けばよかった」

「そうですね」


小林は笑った。


「でも、泊まってよかったです」

「それならよかったです」


直人は玄関を開けた。冷たい空気が入ってきた。


小林は駐車場まで歩き、車のドアを開けた。


「じゃあ、いってきます」


直人は一瞬だけ、その言い方が妙だと思った。


「いってらっしゃい」


小林は車に乗った。エンジンがかかり、しばらくして県道へ出ていった。


直人は玄関の前に立ったまま、その車が見えなくなるまで見送った。


宿に戻ると、食堂の卓上カレンダーが目に入った。


二十八日の次には、二十九日。その次には三十日。


今年も、あと三日だった。

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