第13話 二人旅
玄関の扉が開いたとき、直人は食堂の椅子をテーブルから下ろしていた。
「こんにちは。予約した高橋です」
先に入ってきた女性は、肩にかけた鞄を持ち直した。後ろの女性が、小さなキャリーケースを敷居の向こうへ引き上げる。二人とも、四十代くらいだった。
「いらっしゃいませ。寒かったでしょう」
「駅から歩いたら、最後だけ暑くなりました」
後ろの女性が、マフラーを緩めながら言った。
宿泊者カードには、高橋真紀と、藤田由香と書かれていた。
「少し早めのお休みですか」
「そうなんです。有休をくっつけて」
大学時代の友人で、昨日は甲府に泊まったのだという。明日はそれぞれの家へ帰るらしい。
「この人が全部調べてくれました」
由香が真紀を見る。
「全部ではないけど」
真紀は連絡先欄を書き終え、ペンを置いた。直人は二号室の鍵を渡した。
「今日は、部屋から富士山がよく見えますよ」
由香は窓のほうを見てから、キャリーケースを階段へ引いていった。真紀も鞄を肩に掛け直し、そのあとに続いた。
*
四時を少し過ぎて、二人が食堂へ下りてきた。直人はカウンターで、明日の朝食に使うりんごを選んでいた。
夕飯にほうとうを食べたいというので、周辺の地図を出し、店をいくつか示した。
「歩くと三十分くらいかかります」
「歩いて行く?」
真紀が由香に聞いた。
「え?」
「お店まで、歩いて——」
「うん。いいよ」
真紀は地図に目を戻した。
「帰りも三十分だよ」
「うん」
直人は、暗くなると足元が見えにくい箇所を指でなぞった。由香は窓の外を見ていた。富士山の頂には、まだ日が当たっていた。
出かける前に、由香がトイレへ行った。真紀はコートを着たまま玄関で待ち、スマートフォンを一度見て、ポケットへ戻した。
「お店、混みそうですかね」
「平日ですから、そこまでではないと思います」
「なら、よかった」
由香が戻ると、真紀は扉を開けた。
「行こう」
「ちょっと待って。手袋」
由香が鞄の中を探し始めた。真紀は扉を閉め、外を見ていた。
*
二人が戻ったのは、七時半ごろだった。
「おいしかったです。すごい量でした。かぼちゃが大きくて」
由香が言った。
「温まりましたか」
「店では。帰りにまた冷えました」
直人は笑って、食堂のポットを示した。
「お湯、ありますよ。お茶もどうぞ」
由香は階段を上がり、真紀は食堂に入ってきた。ティーバッグを一つ選び、マグカップに湯を注ぐ。窓際の席に座ったが、窓には室内しか映っていなかった。
直人が洗った皿を棚へ戻していると、真紀が言った。
「友達と旅行するのって、意外と疲れますね」
「ずっと一緒ですからね」
「普段は、たまにご飯を食べるくらいなんですけど」
真紀はカップの糸を指に巻き、ほどいた。
「別に、何かあったわけじゃないんです」
直人は皿を一枚、棚へ戻した。
「ただ、話しかけると、最初に一回聞き返されるんですよね。聞こえてないなら仕方ないんですけど、もう一回言い始めると、途中で返事するから」
階段で音がした。真紀は口を閉じた。
由香が、着替えを入れた袋を持って下りてきた。
「お風呂、先に入っていい?」
「いいよ」
「真紀は?」
「あとで入る」
「分かった」
由香が廊下へ向かいかけたところで、真紀が声をかけた。
「明日、九時半には出ようね」
「え?」
「明日、九時半には——」
「ああ、うん。分かった」
由香の足音が、廊下の奥へ消えていった。
真紀はしばらくカップを見ていた。
「今のです」
小さな声で言った。
直人はうなずいた。
*
直人にも、同じような旅の覚えがあった。
大学を半年遅れで卒業してから、半年ほど国内外を旅していた。周りの同級生はもう働き始めていて、ハワイへは、まだ大学に残っていた友人と二人で行った。
それまで、何度も一緒に遊んでいた。
けれど旅の途中から、話しかけるたびに返ってくる「え?」が気になった。言い直し始めると、途中で返事が来る。聞こえていたなら、なぜ聞き返すのかと思った。
店を出たあと、友人が靴紐を結び直しているのを待つ時間まで長く感じた。
それでも旅が終われば、また普通に遊んでいた。結婚式にも来てもらった。
今思い出すのは、腹を立てたことより、二人で出かけた日のことだった。
真紀はお茶を飲み終え、立ち上がった。
「カップ、ここでいいですか」
「はい。そのままで」
「ごちそうさまでした」
直人は受け取ったカップを、流しへ運んだ。
*
翌朝、二人は七時半ごろに食堂へ来た。真紀が先に席を選び、由香が向かいに座った。
直人は、焼いたりんごを添えたフレンチトーストと、じゃがいものポタージュを運んだ。パンの焼き目には、はちみつが薄く光っていた。
由香は両手をスープの器に添え、それからスプーンを取った。
「温まるね」
真紀もひと口飲んだ。なめらかなスープに、バターの香りが残っていた。
「コーヒーでいいですか」
「私はお願いします。由香は——」
真紀が相手を見た。
「紅茶にする」
「はい」
由香がナイフでパンを切ると、やわらかい中身から湯気が上がった。
「これ、おいしい」
真紀は、りんごをひと切れパンにのせて食べた。
しばらく、食器の音だけがした。
由香は最後のひと切れで、皿に残ったはちみつをぬぐった。
「もう一枚食べられそう」
「私の、少し食べる?」
「真紀は?」
「スープで結構おなかいっぱい」
真紀は残っていたパンを切り、りんごと一緒に由香の皿へ移した。
コーヒーと紅茶を飲み終えるころ、由香が窓の外を見た。
「今日も見えるね」
真紀も振り返った。富士山の下のほうに、細い雲が一本かかっていた。
「昨日より、雪が光ってる」
「朝だからかな」
由香はスマートフォンを持ち上げかけ、皿の横へ戻した。紅茶を飲んでから、もう一度窓を見た。
*
九時二十分に、二人は荷物を持って下りてきた。
真紀が会計をしている間、由香は壁に貼られた地図を見ていた。
「駅まで、三十分くらいだっけ」
「うん」
「途中で飲み物買いたい」
「駅でも買えるよ」
「そっか」
真紀は財布を閉じた。
玄関で真紀が鞄を肩にかけた。由香はキャリーケースの持ち手を伸ばしたあと、コートのポケットに手を入れた。反対側も探し、それから鞄を開いた。
真紀が自分のポケットから、灰色の手袋を出した。由香の鞄の上に置く。
「部屋にあった」
「あ、ありがとう」
由香は手袋をはめ、キャリーケースを引いた。
「お世話になりました」
「ありがとうございました。お気をつけて」
二人が玄関を出ていく。由香が県道へ出る手前で立ち止まった。
「写真、一枚だけいい?」
「電車」
「まだ時間あるよ」
真紀はスマートフォンで時刻を見た。
それから由香の隣に戻り、二人の後ろに富士山が入るように、少し体を寄せた。




