第12話 一緒に一枚
十二月も半ばを過ぎると、宿には静かな日が続いた。
世の中が年末の休みに入れば、食堂もまた賑やかになるが、今は、朝食の皿を下げたあと、時計の音がよく聞こえた。
その日、男は予定より二十分早く着いた。
玄関に入ると、荷物を足元に置いてから、直人に言った。
「バスがちょうど来たので。まだ早かったですか」
「大丈夫です。部屋、できてます」
名前はジュリアンといった。三十二歳。フランス出身で、今は仙台に住んでいる。宿泊者カードには、小さく整った字で住所が書かれていた。「仙」の字だけ、ほかより少し大きかった。
「日本には長いんですか」
「七年です。最初は東京で、仙台は四年目です」
直人は、用意していた英語の館内案内を裏返した。
「一号室です。南の窓から富士山が見えます。反対側は湖です」
「いいですね。どっちから見ようかな」
ジュリアンは鍵を受け取り、階段を上がっていった。
直人はカウンターの下から、周辺の地図を出した。湖畔の遊歩道と、夕食を食べられる店に丸をつける。休みの店が一軒あったので、その丸は消した。
しばらくして下りてきたジュリアンに、地図を渡した。
「今から出かけるなら、この道が——」
「あ、ここですね。さっき通りました」
ジュリアンは地図の端を指さした。
「バスを降りて、一回湖まで行ってから来たんです」
「そうだったんですか」
「途中のお店で、コロッケも食べました」
直人はまだ、その店のコロッケを食べたことがなかった。
「夕飯は決めてます?」
「ほうとうのお店を予約しました。七時です」
地図につけた丸の一つを、ジュリアンの指が押さえた。
「ここ、歩いて行けますよね」
「三十分くらいかかっちゃいますよ」
「ちょうどお腹が空きそうですね」
ジュリアンは地図を丁寧に折り、上着のポケットに入れた。
*
夕方、直人が玄関の外を掃いていると、県道の向こうからジュリアンが戻ってきた。片手に、小さなビニール袋を提げていた。
「みかん、もらいました」
「どこで?」
ジュリアンが振り返って指さした家には、直人もよく知っている女性が住んでいた。
「庭に何か並べていたので、聞いたんです。干し芋でした」
「ああ、毎年作ってますね」
「僕も好きだって話をしてたら、みかんもあるからって」
袋には五つ入っていた。
「一つ、食べますか」
「じゃあ、いただきます」
直人は箒を壁に立てかけた。ジュリアンは袋からみかんを一つ出し、直人に渡した。
「ほうとうも楽しみです」
「好きなんですか」
「初めてです。写真を見たらおいしそうだったので」
「食べられないものは?」
「今のところ、ないです」
直人はみかんの皮を、花びらのように開いていった。
昔、ルワンダから来た人たちを、鳥取の友人の実家へ連れていったことがあった。友人の家では、立派なカニを用意してくれていた。
直人も楽しみにしていた。せっかく日本に来たのだから、おいしいものを食べてもらいたかった。
ところが、皿に載ったカニを見た途端、彼らの手が止まった。一人が、脚の先を少し触った。隣の人に何かを言い、二人で顔を見合わせた。
直人は身を取り出して見せた。自分でも食べて見せた。それでも、なかなか手は伸びなかった。
迎える側は、喜んでもらえるつもりでいる。
カニを囲んだあの食卓を思い出しながら、直人はみかんを一房、口に入れた。
「どうしました?」
「いや。前に、外国から来た友達にカニを出したら、怖がられたことがあって」
「丸ごとですか」
「丸ごと」
「それは、ちょっと分かります」
ジュリアンは笑った。
「脚、多いですから」
六時過ぎ、ジュリアンは食事に出かけた。
直人は玄関で見送ったあと、カウンターに残っていた地図を重ねた。
案内することが、一つもなかった。
それはそれでいいはずなのに、地図の角を揃える手に少し力が入った。
*
翌朝、ジュリアンは七時に食堂へ下りてきた。
直人は、厚く切ったパンにハムとチーズをのせて焼いた。端から溶けたチーズが、天板の上で薄く色づいていた。目玉焼きと、にんじんのサラダを添えた。
「ほうとう、どうでした?」
「おいしかったです。でも、かぼちゃであんなにお腹いっぱいになるとは思わなかった」
「結構、量がありますからね」
「帰り、少し遠回りしました」
ジュリアンはパンにかぶりついた。口元から、溶けたチーズが細く伸びた。
直人はコーヒーを注いだ。
「今日はどちらへ?」
「湖をもう一回歩いてから、帰ります。十一時の電車なので」
直人がコーヒーポットを戻そうとすると、ジュリアンが顔を上げた。
「あの、一つお願いしてもいいですか」
直人はポットを持ったまま、立ち止まった。
「はい」
「写真を撮ってもらえますか。ここで」
「もちろん」
ポットを置き、差し出されたスマートフォンを受け取った。ジュリアンは食べかけのパンを皿の中央に戻した。コーヒーカップの持ち手も、少し動かした。
「朝食、まだ食べる前に撮ればよかったですね」
「食べてるところでいいんです」
直人は少し下がり、画面を覗いた。窓と、テーブルと、ジュリアンが入る。
「お母さんに送るとか?」
「はい」
ジュリアンは笑った。
「よく分かりましたね」
「うちでも、そういう写真を送ってたので」
直人は三枚撮った。
スマートフォンを返すと、ジュリアンは画面を指で送って、一枚ずつ見た。
「ありがとうございます。あ、あと一枚」
今度は椅子から立ち上がった。
「一緒に入ってもらえますか」
「私も?」
「はい」
直人は、自分のエプロンを見下ろした。
「これ、外しますね」
「そのままでいいです」
ジュリアンはスマートフォンを窓際の棚に立てかけた。角度が合わず、テーブルにあった砂糖の瓶を借りて、後ろに置いた。画面を確かめ、直人の隣に戻ってきた。
数字が減っていった。
直人は、両手を前で重ねた。
「そんなにきちんとしなくても」
そう言われたところで、シャッターが切れた。
写真の中で、ジュリアンは笑っていた。直人も口を開きかけていた。何か言おうとした顔だった。
「もう一枚撮ります?」
直人が聞くと、ジュリアンは首を振った。
「これがいいです」
指を動かし、短い文章を添えて送信した。
食事を終え、ジュリアンが部屋へ荷物を取りに上がっている間に、直人はテーブルを拭いた。砂糖の瓶だけが、窓際の棚に残っていた。
ジュリアンは小さなリュックを背負って下りてきた。鍵を返しながら、スマートフォンを見た。
「母から返事が来ました」
「早いですね」
「向こうは、まだ夜なので」
画面を見せてもらっても、直人には読めなかった。
「何て?」
「朝ご飯がおいしそうって。あと——」
ジュリアンはもう一度画面を見た。
「宿の人にも、よろしくって」
「じゃあ、お母さんにもよろしく」
「伝えます」
玄関を出ると、ジュリアンは迷わず湖の方へ歩いていった。
直人は食堂に戻り、棚から砂糖の瓶を取った。スマートフォンを支えていた面に、小さな指の跡がついていた。
エプロンを少し持ち上げ、下に着ていたシャツの裾で拭って、テーブルに戻した。




