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第11話 聞かれなかったこと

カウンターのこちら側で、卓上カレンダーにバツ印が増えていく。最後の週には「満室」の文字が並び、今年の残りの日々が、少しずつ埋まっていた。


直人はカレンダーから目を上げ、男が宿泊者カードを書く様子を、それとなく眺めていた。


職業欄で、ペンが止まった。


男は少し考えてから、何も書かずに次の欄へ進んだ。


名前は、小野寺修平。三十八歳。


一人で一泊。四号室を予約していた。


「ここ、空欄でも大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ」


直人が答えると、小野寺はカードを差し出した。


住所は埼玉だった。荷物は小さなリュック一つ。電車で来たという。


「湖って、歩いて行けますか」

「十五分くらいです」


直人は玄関を出て、道の先を指した。


「あの角を右に曲がって、あとは下っていけば出ます」


小野寺は一度そちらを見た。


「じゃあ、少し行ってきます」


リュックを部屋に置くと、すぐに下りてきた。


立ち上がるとき、鞄の持ち手を持ち直した。


*


戻ってきたのは、五時を少し過ぎたころだった。


直人は食堂のカウンターで、翌朝使う豆を量っていた。


「寒かったでしょう」

「日が落ちると、急に寒いですね」


小野寺は両手をこすった。


「コーヒー、頼めますか」

「どうぞ。座っていてください」


小野寺は窓際の席に座った。上着は脱がなかった。


湖まで歩いて、遊歩道のベンチに座り、また歩いて帰ってきたという。


「何もしてないのに、結構時間たってました」


直人はカップを置いた。


「明日は、どこか行くんですか」

「まだ決めてなくて。帰る時間も、別に」


小野寺はカップを両手で持った。


「仕事、辞めたんです」

「そうでしたか」

「昨日が最後でした」


直人は向かいの椅子を引いた。


「お疲れさまでした」

「ありがとうございます」


小野寺は笑って、コーヒーを飲んだ。


「それ、昨日もいっぱい言ってもらいました」


送別会もあったという。


花束と、部署のみんなが書いた色紙をもらった。十二年働いた会社だった。


「家の事情ってことにしたんです」


直人は小野寺を見た。


「親のこととか、これから考えないといけないのは本当なので。全部嘘ってわけでもないんですけど」

「ええ」

「そう言うと、あんまり聞かれないんですよね」


小野寺はカップを受け皿に戻した。


「みんな、気を遣ってくれて」


窓の外を、車のライトが横切った。


「本当の理由は、言わなかったんですか」

「聞かれなかったので」


答えてから、小野寺は少し首をかしげた。


「聞かれないように言ったんですけどね」


直人はうなずいた。


カップの底に、少しだけコーヒーが残っていた。


*


昔、海外の鉄道を整備する仕事に関わったことがあった。


山あいを抜ける路線だった。


直人は現地の調査を終え、東京で開かれる有識者との会議に向けて、説明資料を作っていた。


住民の移転。騒音。工事中の土砂。


それぞれに、説明できることと、まだ確認が必要なことがあった。


なかでも気になっていたのは、ある鳥だった。


保護の対象になっているその鳥が、線路を通す予定の谷でも目撃されていた。


調査で確認された繁殖地は、別の谷にあった。計画地で巣は見つかっていない。


そのことは報告書にも書いてあった。


ただ、目撃された鳥が、そこで何をしていたのか。


餌を探しに来ていたのか。ただ通っただけなのか。


尋ねられたら、直人の手元にある調査結果だけでは答えきれなかった。


会議の前夜、ホテルの机で、報告書のそのページをもう一度開いた。


書いてある。


記載を落としたわけではない。


説明の持ち時間は二十分だった。報告書のすべてを話すことはできない。


直人はパソコンに戻り、鉄道が必要な理由のスライドを直した。


既存道路の混雑。貨物の輸送量。線路の勾配。


ルートの比較には、時間をかけた。数字の出どころを確認し、別のルートではなぜ難しいのかを整理した。


こちらは、聞かれれば答えられた。


翌日の会議で、直人はその比較を丁寧に説明した。


説明を終えると、委員の一人が手を挙げた。


「そもそも、この区間を鉄道で整備する必要があるのでしょうか。道路の改良では対応できませんか」


直人は資料を一枚戻した。


用意していた数字を示し、答えた。


別の委員が輸送量の予測について尋ねた。そこから費用の話になり、ルートの比較に戻った。


直人は質問を聞きながら、次に開くページを指で押さえていた。


鳥の話は出なかった。


会議が終わり、廊下へ出ると、同僚が言った。


「お疲れさま。うまく説明できたね」

「ありがとうございます」


直人は答えた。


帰りの電車では、久しぶりに何も読まずに座った。


予定していた会議が終わった。大きな宿題も出なかった。


その夜は、よく眠れた。


*


「上司ですか」


直人が尋ねると、小野寺は少し笑った。


「まあ、そうですね」

「言いにくいですよね」

「悪い人ではないんです」


小野寺はすぐに続けた。


「面倒も見てもらったし。入社したときから知ってる人で」


カップの持ち手を、指で触っていた。


「でも、あの人から電話が来ると、出る前に一回、息を吸うようになって」


直人は黙って聞いた。


「何を言われるか、大体分かるんです。説明する前から、頭の中で答えを作ってる。休みの日でも」

「ええ」

「それが、もういいかなって」


小野寺はカップを持ち上げたが、飲まずに戻した。


「最後まで、いい人でした。花束も、その人が渡してくれたんです」


送別会で、上司は昔の失敗を笑い話にした。


小野寺も笑った。


帰り際には、落ち着いたら連絡をするようにと言われた。


「はい、って言いました」


直人はカップを持って立った。


「もう少し飲みますか」

「お願いします」


新しい豆を量り、ミルに入れた。


回しているあいだ、小野寺は窓の外を見ていた。


「宿を始める前は、何をしてたんですか」

「いくつか。海外の仕事をして、そのあと学校で教えていました」

「じゃあ、辞めたこと、あるんですね」

「ありますよ」


直人はミルを置いた。


「辞める理由って、全部は言わないですよね」

「そうですね」


湯を注ぐと、粉がゆっくり膨らんだ。


「私も、聞かれたくないことはあります」


小野寺が、窓から顔を戻した。


「今もですか」

「今も」

「宿の人でも」

「宿の人でも」


小野寺は笑った。


直人も少し笑って、もう一度、湯を注いだ。


鳥のことを、話そうかと思った。


会議の前夜に開いたページと、廊下で同僚にかけられた言葉を思い出した。


カップを小野寺の前に置いた。


「熱いので、気をつけて」

「ありがとうございます」


結局、話さなかった。


*


翌朝、小野寺は七時過ぎに食堂へ来た。


直人は、じゃがいもとチーズのオムレツを切り分けた。こんがり焼けたじゃがいもに、溶けたチーズが絡んでいた。


焼いたパンと、トマトを添えた。小野寺が席につくころには、皿の上からまだ湯気が上がっていた。


「よく眠れましたか」

「五時に起きました」

「早いですね」

「会社に行く日と同じ時間です」


小野寺はパンをちぎった。


「今日も行かなくていいんだって思って、もう一回寝ました」


オムレツを一口食べた。


「おいしいです。これ、じゃがいもですか」

「ええ。薄く切って、先に焼いてあります」


小野寺がもう一口切り取ると、溶けたチーズが細く伸びた。


スマートフォンが震えた。


画面を見て、パンを持ったまま止まった。


「会社ですか」

「後輩です」


少しして、笑った。


「昨日教えた中華屋、今度一緒に行きませんかって」

「おいしいんですか」

「餃子が。昼だと食べられなくて」

「にんにく?」

「結構、入ってるので」


小野寺は画面を戻した。


「この人には、家のこと、何も聞かれてないんですよね」


しばらくして、親指で文字を打った。


送信すると、スマートフォンをテーブルに伏せ、残りのオムレツを食べた。


*


十時前に、小野寺はリュックを持って下りてきた。


「また湖に寄ってから帰ります」

「今日は、昨日より暖かいですよ」


直人は玄関の戸を開けた。


小野寺は外へ出て、一度振り返った。


「あの、カードの職業欄」

「はい」

「無職って書けばよかったですね」

「空欄で大丈夫です」

「じゃあ、次に来たときに」


小野寺は笑って、道を下っていった。


直人は食堂へ戻り、朝食の皿を片づけた。


パンのかごに、小さなかけらが一つ残っていた。


口に入れると、もう冷たかった。


昔の会議で、あの鳥について尋ねられていたら、何と答えただろう。


調査で分かっていることを説明しただろう。繁殖地は別の谷にあり、計画地では巣が見つかっていないと。


その先を聞かれたら。


直人は皿を水につけた。


「そこまでは、分かっていません」


声に出してみた。


食堂には、誰もいなかった。


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