2話 赤ちゃんに生まれ変わったらしい
温かくて、優しくて、安心できる場所、そんな場所に居た。遠くから色んな音がくぐもって聞こえてくる。
しかし、その音もどくん、どくんという安心のできる音にかき消されて行く。
しかし、ある日、ぎゅうっと押された。
今まではまだまだ広かったのに、どんどんとこの場所が狭くなっていく。
苦しい、怖い、助けて欲しい。
そんな気持ちから暴れ回る。
そうするとやがて光が見えた。
そこへ向かって必死に進んでいく。
「おめでとうございます、元気な男の子ですよ!」
……ん? ここは?
何となく意識がはっきりしてきたが、周りがよく見えず、自分がどこにいるのかも分からないためとりあえず辺りを見渡そうとする。
しかし、その瞬間俺の肺が悲鳴をあげる。
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
痛い、と言うよりも強烈な違和感と言った方がいいかもしれない。そのなんとも言えない感覚に俺は思わず声を上げてまるで赤ちゃんのように泣いてしまう。
「あはは、元気な泣き声ですね!」
「本当に……良かった……」
周りからは楽しげな声や、嬉しげな声が聞こえてくる。
いやいや、そんな声をあげてる暇があるなら助けてくれ、救急車か何かを呼んでくれと叫ぼうとするが、どうやってもそれは意味を持った声にはならず、ただ泣き声だけが発せられる。
一体、俺の身に何が起きているんだ……?
確か俺はいつも通りに出勤しようとしていて、そして……。
っ!? そうだ、俺はあの時刺殺されたはずじゃ!?
刺されたはずの背中を確認するために手を伸ばそうとするが、身体が上手く動かない。
……だが、今のところ背中が痛むようなことまは一切無い。なんなら近頃の悩みであった腰痛も無くなっている。
本当に何が起きているのか分からない。
冷静に思考しようにもこの肺の苦しみや圧倒的情報不足によって遮られ、今どういう状況下に置かれているのか考えることすら出来ない。
そうこうしているうちにかなりの時間が過ぎ去っていく。苦しさのせいで時間が早く流れているような気もするが、それでもある程度の時間が経った。
俺は気が付いたら眠っていたようで気が付くと先程までとは視点が変わっている。
苦しみはいつの間にかだいぶ良くなっており、俺は再び冷静な思考をすることができるようになった。
なおも体は上手く動かないので、辺りを探索することは出来ない。
視界もなにか靄がかかったようで良く見えないが、周囲にあるものの存在は確認が出来た。
どうやら、俺は誰かに抱かれているようで、包み込まれるような感触にとてつもない安心感を感じる。
さて、そろそろ自分が置かれている状況について考えよう。
俺は刺された、これは間違いないと思う。背中に走ったあの鋭い痛み、視界が暗くなっていく感覚、全部はっきり覚えている。
なのに今、痛みはない。それどころか、体は妙に軽い。
そして……この体。
指を動かそうとするが、思ったようには動かない。視界もぼやけているし、首もほとんど動かせない。
ここまで考えればもう自ずと答えは出る。
……どうやら、俺は赤ちゃんに生まれ変わったらしい。
思わず内心で苦笑する。この状況はネット小説や漫画でよく見る状況だが、まさか俺がその当事者になるとは……。
いやまぁ、そんな冷めた感想を持ってる場合でもないんだけどな。
今現在、俺は耐え難い空腹に襲われている。産まれたばかりのあの違和感と比べれば幾分かマシではあるが、それでも辛いものは辛い。
あの、お母さま、出来れば何か食べたいのですが……。
「……この子、全然泣かないですね、そろそろお腹空く頃だと思うんだけど……」
「んー、大人しい、確かに珍しいですね……けど大丈夫。赤ちゃんのコミュニケーションは泣くことです、もしお腹が空いたり嫌なことがあれば泣いてくれるはずなので、今はまだそうじゃないってことですよ〜」
「まぁ、そうなんですね」
ん〜、この声は看護婦さんかな? 違うよ? お腹空いたよ?
お母さんも納得しないで、ご飯頂戴?
そう口にしようとしてもただパクパクと口を動かすことしか出来ない。
「けど、こんなに泣かないなんて、もしかしてどこか悪いんじゃ……?」
「大丈夫ですよ、もうちょっとしたら泣くと思いますから!」
大丈夫じゃないです、まじで、ご飯ください!
それにお母さん、なかなか泣かない事を心配してくれるんだったらとりあえずご飯あげるとかでもいいと思うよ!?泣くのを待つんじゃなくてさぁ!
……ん? 泣くのを待つ?
…………あ、これ、泣けばいいんだ。
少しの羞恥心はあるが、それを、まぁ赤ちゃんだし当たり前だろうと言う言葉でかき消し、大きく息を吸い込む。そして……。
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
産まれたばかりにしたのと同じように泣き叫んだ。
「お、噂をすれば、元気な鳴き声ですね〜! ささ、お母さん、出番ですよ!」
「よ、良かった……よぉし、いっぱい飲もうね」
そう言ってお母さんはぎこちない手で俺を抱き直す。
その瞬間、さっきよりもずっと近く、柔らかく優しい感触に包まれる。
そして、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。
俺は本能的に理解し、口元へ触れる柔らかな感触に迷うこと無く吸い付く。
空っぽだったからだが満たされ、先程までの空腹が嘘だったかのように消えていく。
そのやみつきになるような満足感を夢中で堪能していく。
「すごい飲みっぷり、初めてなのに上手ね」
「赤ちゃんは本能的に母乳を求めてますからね」
周りの声がどこか遠くに聞こえる。
満足感と共に空腹によって掻き消されていた眠気が俺を襲う。意識がじんわりと溶けていくような、不思議な感覚に包まれていく。
抗おうと思えば抗えるのかもしれないが、正直抗う理由がない。むしろ、このまま身を任せてしまいたい。
そんな気持ちの方が強かった。
さっきまであれだけ頭が回っていたのに、急に思考がぼやけてきている。
満腹になった途端これかよ、赤ちゃんの体、正直すぎるだろ。
……まぁ、いいか、今は考えても仕方ないことばかりだしな。
それに……この温もりは、悪くない。
そう思ったところで、俺の意識はすっと闇に落ちていった。




