『無』自覚
男性従業員に水を持ってきてもらい彼女へ解毒薬を飲ませたビリーへ、アンヌがにこりと笑いかける。
「いろいろと、ありがとうございました」
「どういたしまして」
余所行きのアンヌの笑顔にまだ自分を認識していないと判断したビリーは、この場では正体を明かさないことにした。
「私が傍に付いておりますので、あなたはもう少しお休みください」
「わかりました」
目を閉じ安心した顔で眠るアンヌの頭をそっと撫でていると、後ろから声がかかる。
入り口に視線を送ると、ボニーとミモザがドア付近に立っていた。
この部屋に入ったときにあらぬ疑いを掛けられぬよう、ビリーはドアを閉めず開け放したままにしていたのだ。
「ガーベラの様子は、どうでしょうか?」
「解毒薬は飲ませました。多少、意識や記憶の混濁があるようですが、目覚めれば治まっているかと」
「そうですか……」
「ガーベラちゃん、良かった……」
ボニーは明らかにホッとした顔をし、ミモザは少し涙ぐんでいる。
「念のため、しばらくこのまま彼女を経過観察したいのです。許可をいただけないでしょうか?」
「お客様に、そこまでしていただくわけには……こちらで医者を手配いたします」
「いえ、それには及びません。実は、彼女は私の弟子……の妹でして、私たちは知人なのです。弟子から妹の様子を見てきてほしいと頼まれておりまして、会員の友人にお願いをしてこちらに……」
アンヌを他人に任せるつもりなどさらさらないビリーは、この場に残る理由をどうにか捻り出す。
「左様でございましたか」
「友人へ事実確認をしてくださって構いません」
「クリス様にお客様の身元は保証していただいておりますし、数年前にも一度お越しいただいておりますから問題ございません」
「……そんな昔の客まで、覚えているのですか?」
「お客様の顔を覚えることも、大切な仕事でございます」
ビリーがクリスに無理やり連れてこられたのは、三年前のこと。
しかも、当時は変装をせずに訪れた自分のことを記憶しているボニーに、ビリーは畏怖の念を抱いた。
「店の規約によりお客様と従業員を部屋に二人だけにできないものですから、こちらのミモザを同席させますがよろしいでしょうか?」
「もちろん、構いません」
ビリーが同意すると、「では、ガーベラをよろしくお願いいたします」とボニーは深々と頭を下げ部屋を出て行った。
◇
ビリーはミモザへ場所を譲り、自分は二人からは少し離れたソファーに座ると目を閉じた。
ふと、証拠の保全をしなかったことに気付いたが、クリスに任せておけば大丈夫だろうと思い直す。
(アイツ、自分の敵に対しては本当に容赦ないからな……)
学園時代のクリスを思い出し苦笑いを浮かべたビリーは耳を澄ましてみたが、店内の物音は全く聞こえず、あの後どうなったのかわからなかった。
ミモザはずっとアンヌに付き添っており、部屋の前を行き交う従業員の話し声や靴音がたまに聞こえてくるだけで沈黙の時間がしばらく続く。
「あの……」
静寂を破るミモザの声に、ビリーは目を開けた。
「どうされましたか?」
「もしかして……あなたは、ビリーさんではありませんか?」
「そうですが、どうして私を名を?」
頷いたビリーに、「やっぱり!」と声を上げたミモザ。
そのあと「……だって、ガーベラちゃんの頭を撫でていたから」と彼女が小さく呟いた声は、彼の耳には届いていない。
「ガーベラちゃんから、あなたの話を聞いています。彼女は、毎日毎日食事のたびに一生懸命メモを取っていて……」
「こちらでも、そんなことをしていたのですか」
ハンクス侯爵家でも料理長へ質問をしメモを取っていた姿を思い出したビリーは、ついフフッと笑ってしまった。
「でも、それはあなたに食べてもらうためなのです。それと……彼女はこんなことも言っていました。あなたとずっと一緒にいたいけど、おそらくそれは叶わないのだと」
「…………」
「私がこのようなことを申し上げるのは、差し出がましいことだと重々承知しておりますし、何か事情がおありになるのも理解しております。それでも……」
ミモザは、澄んだ緑色の瞳をビリーへ向ける。
「どうか、ガーベラちゃんを幸せにしてあげてください! お願いします!!」
「えっと……」
突然、自分へ頭を下げ懇願するミモザの行動に困惑し、ビリーは言葉が出ない。
「これからもずっと、あなたの傍にいることを彼女は望んでいます。だから───」
「……私と一緒にいることが、果たして本当に『彼女の幸せ』なのでしょうか?」
ビリーはずっと考えていた。
潜入調査などしなければ、アンヌがこんな事件に巻き込まれることはなかった。
客が怪しい行動をしていた時点で、自分が躊躇わず介入するべきだったのではないか。
そもそも、自分と知り合わなければよかったのではないか。
自分が誘わなければ……
彼女が弟子にならなければ……
「ガーベラちゃんの顔を見ていたら、わかりますよ。あなたのことを話しているときの彼女は本当に嬉しそうで楽しそうで、見ているこちらまで幸せな気分になりますからね」
クスッと思い出し笑いをしているミモザの横で、すやすやと穏やかな顔で眠るアンヌをビリーは見つめる。
これまで、何事にも執着せずに淡々と生きてきた自分に芽生えた、初めての感情。
ここ最近、食事のたびに何となく感じていた物足りなさ。
限度を超えた客の行動に、ひどく苛立ってしまったこと。
他の誰にも触らせたくないという、自分勝手な気持ち。
もし昏睡状態のまま彼女が目を覚まさなかったら、摂取した薬が致死量に達していたら……失うかもしれないと覚悟したときに感じた、底知れぬ恐怖と喪失感。
自分の気持ちと真正面から正直に向き合うのか、それとも、目を背けこのまま気付かないふりを続けていくのか、ビリーの中で答えはまだ出ていない。




