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18.


「純ちゃん?」


 今度は後ろから聞き慣れた声がした。

 振り向くと、二輪車を停めてヘルメットを脱いでいるアツがいた。


「あれ? アツ、こんな所でどうしたの?」


 アツの家は全く違う方面のはず。ここで会うなんて意外だ。


「ボスの家にお届け物。純ちゃんは、っと……」


 急に口を噤んでしまった。最近よく見る目――ボス曰く、何かが抜け落ちた目――を私の後ろへ向けている。

 振り向くと、こちらを注視しながら少し眉を寄せているヒサくんがいた。考え事をしているようだ。

 私が見ていることに気付くと、苦笑いしてすっと一歩退いた。おや、真っ先にアツへ話しかけるかと思ったのに。


「純さん、もしかして彼が、前にミコトを助けてくれた方なのかな?」

「ああ、院で倒れた時のことだね。そうだよ」

「なるほど。うん、ミコトの言っていたのはこういうことか。全然読めない」


 後ろに気配を感じて振り向くと、肩が触れそうなくらいの近さでアツが立っていた。

 いつの間にかバイクを降りて近付いてきていたらしい。

 びっくりして体を跳ねさせてしまい、微かに笑われた。


「で、純ちゃん。この人は?」


 さっきの冷めた目は消えたけれど、今度はちょっとむくれた声で問い質された。


「ミコトくんと同じお店のスタッフさん。ほら、例のバー」

「ああ、純ちゃんの行きつけね」


 納得したような声色だけれど顔は晴れない。どうしたんだろう。

 荷物を足下に置き、口元に握り拳を当てたヒサくんが私たちを交互に見ている。ややあって、ヒサくんが一つ頷いた。


「なるほどなるほど、純さんが必要なのか。……よしオーケー。俺はここで失礼しますね。やっぱり先に厨房に行くことにします。純さん、またのご来店をお待ちしてまーす」


 何がオーケーだったのかは知らないけれど、拍子抜けするほどあっさりとこの場を去ったヒサくん。いつもならグイグイくるのに、珍しい。呆気にとられていると、後ろから肩をストレッチされた。


「乗って」


 今までもアツに何度か乗せてもらったことがある。

 遠くへ移動する時にはもっぱらアツのバイクだ。というか、それしか移動手段がないとも言える。気持ち悪くならない相手はアツしかいないのだいから。


「そんなに距離もないんだから歩けるよ。アツは先に行っていていいよ」

「違う。鹿杜(かもり)公園に行こう」


 近くの川を何キロか遡った場所にある自然公園だ。

 研究生時代、行き詰まると討論がてらの散歩に行った。

 アツは1人でもよく行っていたらしい。私も移動手段さえあったらな、と思ったことがある。良い公園だ。

 涼しいを少し通り過ぎた気候だし、既に夕方だ。もうあと1時間程で日が暮れ始める。

 夜中に帰宅する私は普通より厚着しているけれど、鹿杜公園まで行くと更に寒いだろうし日が暮れるのも早い。

 ただでさえバイクは風を受けるから寒いのだ。

 けれど、私は迷うことなく提案に乗った。


「行くならウィンドブレーカー取りに戻らないと」


 断らなかったからか、アツは少しだけ口の端を上げて、私の家の方面へとバイクを転回させた。




 薄暗くなり始めた遊歩道を歩く。

 奥にあって分かりにくいこの道は、人が少ない穴場だ。

 転がり出ていた石を蹴って木の根元に飛ばしたところで、アツが口を開いた。


「純ちゃん、どんどん変わってくなぁ」

「何が?」

「少しは自覚してるでしょ、僕以外にも普通に話す人が増えてること」


 確かにミストの人たちとは普通に会話している。

 でもアツは彼らをほとんど知らないはずだ。さっきヒサくんと一緒にいたのを見ただけで、その結論は出ないだろう。

 誰のことを言っているのだろうか。


「研究生たちと喋る量が増えたよね?」


 そうだろうか。

 前々から最低限の会話はしていたし、そこまで気にしていなかった。

 けれど言われてみれば……。


「月に2回くらいだったのが週1になった?」


 凄い、倍になっている。増えていた。

 アツの方が本人よりよく知っているとは。


「それに、アラシュのとこの営業さん。もう話ができてる」


 私に食らいついてきた取引先の一社だ。4月に新しく担当になった人を指している。

 これも言われてみれば、だ。意外に近い距離まで来れている。サンプルを手渡しできるまでになっているのだ。

 この短時間でここまで近寄れるなんて歴代1位だ。

 研究生たちも、営業さんも、接するのに気が楽になった。気持ち悪さが減ったのだ。

 だから会話が増えたのだろうか。


「やっぱり変わっちゃったね」


 変わった、か。ここまで来て何となく自覚は出てきた。でもね。


「私に言わせれば、アツの方が変わったよ」

「変わったかな?」

「うん。笑わなくなった」


 アツは一呼吸置いてから、


「笑ってるよね?」


 と顎に人差し指を置いて首を傾げた。


「いいや。笑っていない」


 一拍あったんだ、それこそ自覚しているだろう。誤魔化さなくていいからその笑顔をやめろ。


「あれ、純ちゃん、ちょっと怒ってる?」


 アツが驚いたように目を見開いた。

 かと思うと、本物の笑顔が浮かんだ。

 ……が、すぐに作り物へと戻ってしまった。


「うーん。純ちゃんが僕とは違ったのはハッキリしたんだけどなぁ」


 止まっていた足を再び動かし、私を置いて先に歩き始めたアツ。


「いや、困ったな。何がキーなんだろ。どうするかな」


 よく分からないけれど、変わっただの変わらないだのという話題からは逸れたらしい。

 一歩遅れて付いていく。

 というか、研究の討論はしないのだろうか。てっきり、行き詰まっている部分の話し合いをするのかと思っていたのだけれど。


「少なくとも距離は関係……あるけど、でもなぁ」


 あ、脳波の伝達距離かな。確かにその検証は後回しになっていた。


「普通に座っている分にはウィンドウとの距離はせいぜい1メートルだよね。でも、脳波を受け取る出入力デバイスとの距離とそこからウィンドウまでの合計距離を鑑みた時には、複数の波形があった方が……」

「あー、ああ、あれ、ね。後でデータ渡すよ。到達距離の分布、さっき研究室出た時に届いたんだ。僕もまだ中身しっかり見てなくて」


 どことなく焦った風の声で私の言葉は遮られた。


「そっか。じゃあそれは帰ってからすぐに検討できるね。そこから使えそうなものを選んで、と」

「あのさ、純ちゃん、ちょっと横に来て」


 うん?

 まぁいいけれど。素直に従う。


「ふむふむ。じゃ、2メートルくらい離れて」


 さっきの、脳波の到達距離の話か。……あ、何となくそわっとした。


「んー……」


 顎に拳を当てて悩むアツ。何か言ってくれないと話が先に進まない。

 仕方なく私も仕事を後回しにする。

 今の謎の感覚へと思考を切り替えた。


 アツと会話している時に変な感覚になることがあった。

 それはいつ頃からだったか……とにかく今年度に入ってからだと思う。

 そわそわする、と言葉にしてしまうと微妙に違うのだけれど、鳩尾の辺りが動くような感覚は似ている。

 バネが左右に揺れる時のような振動だ。

 いや、バネよりも、長い針金がしなった時の振動の方が近いか。フェンシングの剣が一番似ている気がする。フェンシングをやったことがないからイメージだけれど、あのびょんびょんした見た目はそれっぽい。

 そわっと感はアツ以外には感じないから、友人認定が関係してくるのだろうか。

 いや、その前から変な感覚はあったように思う。

 記憶をひっくり返してみよう。

 最初に変だと感じたのは……5月頃。実験が1つ一段落ついた時だったか。

 珍しく高いテンションで、このまま榊原研の仕事まで奪おうか、できそうだけれど嫌だ、という他愛ない話をしていて、その後だ。

 近付いてから離れるとそわっとする。けれどそれだけではない、何かを忘れている気もする。

 ええと、そわっとするのは何かの反動で揺れるからで、それなら、その時点までは止まっているはずなのだ。

 鳩尾がしっかりした感覚。

 ……ああ、思い返せばそんな感覚はあった。アツの近くにいると妙に落ち着いたのだ。

 気持ち悪くならないことに紛れていて、改めて考えることをしていなかった。

 そういえば、最近その感覚もなくなっている。

 何となく物足りない。そしてそわそわする。

 私は変わったらしい。

 何かが変わったから感覚が狂ってきたのか?

 あるいは逆か?

 いつからだ。いつから変わり始めた?

 何がきっかけだ?


「純ちゃん」


 いつの間にか自問自答に没頭していた。

 気付いたら、すぐ目の前でアツがこちらを覗き込んでいた。電灯まで少し距離があるせいで顔がよく見えなかったようだ。


「泣いてるのかと思った」


 どうしてそうなる。


「すっごく悲壮な顔してる」


 そう言うアツは作り笑いではなかったけれど、何の表情もない、何かが抜け落ちた目だった。

 笑っていた方がましなのか、無表情の方がましなのか、分からなかった。



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