17.
秋学期が始まると忙しくなる。
普段は何もかもを放り出している私ですら仕事が増えるのだ。
来期予算の申請や国への報告書からは逃げられない。もうしばらくすると大きな学会もあるため、そちらの準備も必要だ。
アツは例によって学会の委員も任されており、手配済みの会場への指示やら何やらであちこちを飛び回っている。
ここ最近、アツの標準デバイスを見ない日はない。すべてオンラインで済めば簡単なのに、世間と仕事をする以上はそうもいかないらしい。難儀なことだ。
今でもアツは外行き笑顔を欠かさない。
前はそれでも疲れたのが分かったのにな、と不思議な気分になる。
アツのほんの僅かな変化に気付いたのはボスだけだったようだ。
アツの作り笑いを知らないのに気付いたのが凄いけれど、やっぱり詳しい所までは把握できていないらしい。
結局、アツが笑わなくなっているのを知っているのは私だけだ。
***
「あれ、純さん。今から出勤ですか?」
いつものスーパーの前を通り過ぎてしばらく。角にある自販機でコーヒーを買っていたら、横手から聞き慣れた声がした。
視線を巡らすと、両手に大きく膨らんだ買い物袋をぶら下げたヒサくんが立っていた。
私だと確信できたからか、重さを感じさせない足取りでこちらまでスタスタと歩み寄ってくる。
「俺はちょうど店の買い出しが終わったトコです」
と、両手を軽く持ち上げてみせた。細身の外見に似合わず力持ちらしい。
結構な量だと思ったら、自宅用の買い物ではなくお店のものだったのか。
「仕入れって卸市場じゃないんですか?」
「テンシさんはそっちで買いつけてますよ。酒関連はマスターが酒屋と直接取り引き。俺はこのスーパー担当です。気に入ってるんで」
私も御用達だ。広々としていて人とぶつかることがまずないし、無人レジが多いのが特に良い。
「ナマ物以外は市場より安いくらいだと思うんですよね。種類も多いし」
私とは重視するポイントが違った。当然か。
ナギサさんやミコトくんは何を担当しているんだろう。
「ナギサんもミコトもアルバイトだから、こういう仕事はしてないんですよ。俺はこれでも正スタッフですから」
私の疑問が分かったかのように、ヒサくんが教えてくれた。
なるほど、仕事内容に違いがあるんだね。研究スタッフと助手にはさほど違いはないから……いや違った、ボスとアツが便宜を図ってくれただけだった。
本当は研究生たちへの指導や講義の仕事がある。期限付きの職と定職との違いはあるね。
あれ、でもここはもうバーを通り過ぎている。仕入れをしたならお店へ行くのではないのだろうか。
「とりあえず俺は一旦家に帰ります。店、閉まっている時にいちいち出入りするのがちょっと面倒なんで。途中まで同じ道だし、一緒に歩きません?」
確かにあのシャッターを何度も開閉するのは大変そうだ。早めに出勤して準備を終わらせた方が効率的だと私も思う。
それにしても、一緒に、か。
アツ以外にこんな言葉を言われた経験がない。
でもまぁ、同行は大丈夫だろう。こうして横に並んでも気持ち悪くならないことだし、ヒサくんは割と勝手に喋ってくれるからほとんど黙っていられる。対処に困ることをされた時が問題だけれど。
「何か気に入らないことがあったら立ち止まるなり何なりしてくれればいいですよ。皆みたいに殴らなくてもいいですから」
いつもと違い、固まるだけで退いてくれる気でいるらしい。
でも、あれはあれでヒサくんは楽しそうにしている。あれか、マゾヒストというのはああいう……。
「あ、別に、殴られるのが好きってわけじゃないですからね? だから暴力反対です」
いや、私は殴る気はないけれど。
ひとまず彼は被虐趣味ではないらしい。
じゃあ、と頷いて、2人揃って院の方面へと歩き出す。
私もだいぶヒサくんの雰囲気に慣れてきた。これが半年前だったら、硬い顔で会釈だけして離れただろう。
いや、そもそも横に並ぶこと自体があり得なかった。
しかし、ここからどんな話題になるのだろう。先程の話題は一段落してしまった。アツとはこういう時に何を話していたのだったか。
「そうそう、俺って、まだまだ料理の腕が足りないってマスターにもテンシさんにもダメ出し食らうんですけど。デザート系は丸を貰うことが多いんですよ」
あ、仕事の話だ。分かりやすい。
それにしても、デザートとはまた予想外だ。お酒以外のメニューも見ようと決めた後なのにやっぱりあまり覚えていない。
「うち、メニュー多いですからね。テンシさんはデザートが苦手みたいなんで、そっちは俺がメインで引き受けてるんです。パンケーキとか、パンナコッタとか、パフェとか」
パばかりだ。
「プリンやティラミスもありますよ。日替わりなので常に全部はないけど、純さんもたまにはどうです?」
甘いものは好きだ。脳が働くためのエネルギーに直結する。頭脳労働者は甘党が多いというのが私の持論だ。
もっとも、私は甘いものも辛いものも食べるけれど。
二択はおかしいと常々思っている。
それじゃあ、今度はデザートも試してみよう。何がいいかな。
「ま、相談してください。オススメがあればお出ししますんで」
楽しみになってきた。
先程から、私はろくに口を開いていないのにも関わらずスムーズに話が進んでいる。
ヒサくんが話を広げてくれているからなのだけれど、私の考えていることと彼の話がタイミング良く繋がっている感じがするために、何だか会話をしている気分になるのだ。
不思議だ。
これだけ話のできる人なら、友人もたくさんいそうだな。
思い立ち、ナギサさんにも尋ねた問いをヒサくんにも投げてみる。
「突然ですけれど」
はいなんでしょう、とヒサくんが首を傾げる。
「どんな人のことを友達だと認識するんですか? 友人と知り合いは何が違うんでしょうか」
「ホントに突然ですね」
私には会話スキルがないのだから、基本的にはすべて突然の話題だ。
「俺が友達と思えば友達。以上です」
……その基準を知りたいのだけれど。
「基準なんて大層なものはないですよ。境目なんて曖昧なんだから、自分がそう思えば友達。そういう風に人に紹介したければ友達。そんなもんです」
それでも、何かしらのチェック項目はあると思うのだけれど。
知り合いと友人、どこで線引きをすべきか。
例えば、ミストの人たちはどうなのか。これが一番分かりやすい謎だ。
「じゃ、純さん、俺と友達になります?」
「なると言ってなれるようなものなんですか」
「だから自称ですから。宣言しちゃえばオーケー。それに俺としては、純さんって裏表なくて付き合いやすそうだし」
裏表がないとはナギサさんにも言われた。
いや、それは今どうでもいい。
私の方が友人と思っていなくても友達になれるものなのか。
「だいたいの好感度は分かるんで、両思いの友達になりやすくはある、かな。俺自身は、こっちからの片思いでもあんまり気にしないですけど」
両思いの友達、片思いの友達。どことなく私と友の関係を彷彿とさせる概念だ。
「とにかく、相手がどう思っていようが、俺が友達だと言えば友達。知り合いと友達は緩やかに繋がっていて、その境目は、自分が勝手に立て看板を立てて決めるようなもんです」
川と海の境界を思い浮かべる。
どこからが海なのか、判別する基準はいくつかあるらしい。
ただ、自分がどの基準を採択するかによって、境目は変わる。
「そうそう。ぶっちゃけ、全部を知り合いにしちゃってもいいんだし、人類皆友人にしちゃってもいいわけです。俺の基準をあえて言うなら、……勘」
勘。え、どうしろと。
ナギサさんが戸惑った時の気分がよく分かった。
「ホントは勘じゃないんですけど、勘ってことにしてください、話がややこしいんで。とにかく、友達かどうかなんて、人に紹介する時にどういう記号で呼ぶのかってだけの話なんです。名前さえつけなきゃ、自分の懐に近いところにいる知り合いか、あまり関わりのない知り合いか、そういうグラデーションがあるだけ」
「仲の良い知り合い、という状態もあり得る?」
私の疑問に、ヒサくんは事も無げに頷く。
「たぶん、今の純さんにとって、俺たちがそう」
そう……なのだろう。
ミストの人たちは知り合いの中でも特別枠になっているけれど、それは、ボスがボスという位置付けができているのと同様、ミストの店員という位置付けになっているだけのような気がする。
「でも、俺は純さんを友達と言ってしまえます。片思いの、こっちからの一方的な友達認定でも、俺はアリなんで。そういうのを含めて曖昧なんですよ」
友人かどうかは言ったもの勝ち、そして店員と客という関係性でも友人にはなり得る、というのがヒサくんの回答だ。
難しくなってきた。




