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15.


 海外あちこちを飛び回っていたアツが、休暇期間を1/3程残して帰ってきた。予定通りにバカンスも楽しめたようだ。

 土産を手にいつもと同じ穏やかな笑顔で研究生くんに挨拶していたけれど、私の顔を見るなり、


「あれ?」


 と呟いて眉間に皺を寄せた。

 私の顔に何かついているのかと聞くシーンなのかもしれないけれど、そんなことは残念ながらしょっちゅうある話だ。つまりアツの疑問はそれではない。

 一応、何気ない振りを装って顔を一撫でしておく。


「純ちゃん、ちょっと見ない間に……」


 痩せたでも太ったでもないのは分かる。

 ミストで飲み食いする日が増えても体型に変化はない。胸に脂肪が欲しいとも思わないから、貧相なままでも気にしない。

 何か言いかけたまま、アツは黙り込んでしまった。一体何なのかは分からないけれど、私にそれ以上言わないということは私が気にする必要はないということだ。まぁいいや、と疑問を放り投げておく。



 ***



 秋学期が近付き、院も平常運転へと戻った。

 私も真面目に夕方勤務だ。今日は21時で終わり。

 ……なのだけれど。

 海外出張以後、アツは更に構ってくるようになった。

 具体例を挙げると、勤務時間を変更した。それも、私の勤務形態に近くなるように、だ。

 秋学期が始まったらどうするのだろう。忙しいアツは何だかんだと会議が入るはずだけれど。


「忙しいんだし、わざわざ合わせる必要なんてないのに」

「正直な話ね、純ちゃんと時間を合わせた方が仕事が進むんだよ」


 確かにそうだ。それに関しては常々申し訳ないと思っている。

 思ってはいるけれど、別に今まで通りでも大きな問題は起きていなかった。

 少し停滞気味の部分はあるけれど、今までも分担して実験していたのだし、チームとしてはさほど問題なかったはずだけれど。

 もしかしてアツはもっと先へと進みたいのだろうか。今のペースでは不満なのかな。


「私は気にしないから、自分のやりたいようにやりたいことをやればいいよ。置いていかれても文句言わないから」


 もちろん、悔しいけれどね。

 でも、こうしてアツが負担を強いられるのはどうかとも思う。こいつはできる奴だ。立ち止まっていられないと言われたら頷くしかない。

 こちらの案件を急かさずとも、更にもう1つ新しい案件をスタートすれば良い。チームを抜けることは難しいだろうけれど、分担の割合を減らすことはできる。

 それくらいは協力できる。


「やりたいこと? やっているよ? ほら、今度はこの試験結果の考察をお願いね」


 いつの間にかデータが転送されていた。

 はぐらかされた気がするけれど、少なくとも新規の研究をしたいのではないらしい。

 構われすぎている現状はどうかと思うけれど、逆に完全に遠くに行ってしまうわけでもなさそうで少しだけ安心する。アツを失うのは色々と手痛い。


 溜息に近い吐息をついて、寄越されたデータを眺める。

 今回の結果は面白いと言えば面白い。仮説とは違ったけれど、別のデータを補強する材料になった。

 ――ただ、うーん……えぇと……これはこっちの話と繋がって……いや、繋がるか? 違う気がする。えっと……――

 …………――――。

 平日はどうにも頭の回転が鈍る。考察をお願いされたけれど、なかなか進まない。腕を組んで椅子にもたれかかった。


「饗場さん、少しいいですか?」


 声をかけられて、椅子に頭を預けたまま横を向く。

 実験ノートと模型を手にした研究生ちゃんが隣の机の前に立っていた。ちなみに私は研究生諸君に先生とは呼ばせていない。


「実験の手技がどうも上手くないみたいで、ボスに聞いたら、饗場さんが得意だから聞いてみてごらんって言われたんです」


 私に回してくるなんて珍しい。

 ただ、ノートを見せてもらって納得した。以前所属していた研究室で会得した技術だから、大橋研で一番詳しいのは私だ。

 実際にどう作業しているのかを聞き出し、模型を使って再現してもらい、問題点を指摘していく。

 研究生ちゃんは入学時から私の論文を読んでいたらしく、話がスムーズだ。アツほどではないけれど、質問の的は射ている。指導もしやすい。

 程なくして、得心がいった様子の研究生ちゃんが頭を下げて退室した。

 もう一度、溜息に近い吐息を吐く。

 いや、研究生ちゃんとの会話はさほど疲れなかった。普段指導をしていない割には、なかなか上手く話ができたのではなかろうか。

 溜息の理由は、ただ単に、よりによって解釈の難しいデータを寄越しやがって、とアツに対する批難を引きずっているだけだ。

 やりたいことをやっているなら、この考察も自分で担当してくれ、まったく。



 ***



 ジンジャエールはドライに限る。

 甘いものは好きだけれど、ジンジャエールに関しては辛口派だ。

 ミストはこの辺りの品揃えも素晴らしく、きちんと両方メニューに載っていた。ソフトドリンクのページも開いてみるものだね。

 その流れでフードのメニューにも目を通す。

 カレーと他何品かのローテーションばかりで、最近はこのページも素通りだったのだ。

 右下に、新メニューという注釈と共にハニーチーズピザなるものがあった。チーズの種類が選べるらしい。


「蜂蜜とチーズって合いますからね、オススメですよー」


 私の視線を追ったのだろう、カウンター内にいるヒサくんが軽く身を乗り出してきた。


「俺の腕でも合格って言われたメニューですしね!」


 なるほど、だから期待に満ちた目をしているのか。私には違いが分からない話だけれども。


「それじゃあ、ゴルゴンゾーラで」

「おっ! 純さん、ブルーチーズがイケる口ですか」

「チーズはどれでも大概大丈夫」


 さっそく生地を広げ始めたヒサくん。

 覗き込んでみると、薄くて小さめのピザ生地が見えた。パリパリした食感は好きだから期待が高まる。

 ヒサくんがピザをオーブンに入れたのを見届けてからドライジンジャエールを注文する。

 驚きました! と言わんばかりの顔をされた。心配せずとも次はアルコールを頼むよ。


「ジンジャエールが良かったならモスコミュールという手もあったんですよ。度数はそこまで強くないですけど、甘くないからちょっと違う感じで飲めるんじゃないかな」


 受け取る時にそんなことまで言われた。なるほど、一つ勉強になった。

 上に乗せられたミントを見て、先日のナギサさんの飾り切りオレンジと、その時の会話を思い出す。

 ナギサさんの仮面の話は誰にも言う気はないけれど、何だったか、気になることがあった。

 確か……あぁそうだ、店に入った時の……――

 思い至った時、後ろから声をかけられた。


「いらっしゃいませ、饗場さん。おや、今日はピザですか」


 小さめの垂れ目を更に小さくし、店長がゆったりと微笑む。

 従業員部屋から出てきたところらしく、荷物を抱えている。そのままカウンターの中に入って、天井近くに設けられたキャビネットに備品を補充していく店長。

 その背中に向かってヒサくんが、


「純さん、ノンアルコールをオーダーしたんですよ!? これは由々しき事態かと!」


 と芝居がかった様子で語りかけている。……あ、キッチンペーパーの大きなロールがヒサくんを直撃した。後ろを向いていてもクリーンヒットさせられる店長が凄い。




 金曜日にしてはお客さんが少なめで、ヒサくんも店長ものんびりとカウンター内での作業を続けている。

 人が多いと聞きにくい話題を、思い切って口にすることにした。

 先日ナギサさんに見せてもらった、電子シャッターについてだ。

 他人様(ひとさま)の事情に首を突っ込むべきではないと重々知りながら、それでも院でも珍しい物を見たことが未だに信じらなくて、一度店長に尋ねてみたくなったのだ。

 恐る恐る、ナギサさんにお店のシャッターを見せてもらったんです、凄いですね、と切り出した。


「ああ、あれですか。僕ではなくてオーナーが設置したものなんですよ」


 気を悪くした様子もない店長が、すぐに答えてくれた。

 オーナー? ああ、つまりこの店の所有者か。


「店長は僕ですが、オーナーは僕の父親なんです」


 なるほど。家族経営だったらしい。


「ここを好きにしていいと数年前にポイッと渡されたんです。内装や設備は基本的に僕が見繕っているのですが、シャッターのようにいくつかは父自ら手を入れています。父は新しいものや珍しいものが好きなんですよ」


 言いつつ、店長は店の中を見渡す。


「大きなものだと、入口のライト。他はそうですね、半個室の仕切りは後付けなんです。あの透かしと彫りが気に入ったから、と言って取り付けていきました」


 店長の視線を追って半個室へ目を向ける。

 人気のある席だけれど、今日は空だ。透かし越しに個室の明かりがほんわりと光っている。

 このお店の明かりはすべて入口のライトとどこか似ている。統一感が出ていて好ましい。


「僕にすべて任せてくれてもいいのに、そこはオーナーですからね、仕方がありません。趣味だのどうだの言って、度々来てはご満悦に去っていくんですよね」


 他人の家族の話は初めて聞いた。アツの家族のことも一遍たりとも聞いたことがない。

 自分自身、一般的でないと思われる家庭で育ってきているために、説明が色々と面倒だ。ミストの皆にもアツにも進んで話そうと思わない。

 誰しも、何らかの理由があって口にしないのだろう。

 かといって積極的に遮りたい話題でもない。

 店長の口ぶりは文句を言っているようで、その実、優しさが滲み出ている。こちらも安心して聞いていられる。


「でもマスター、ぶっちゃけマスター自身もミストの仕事は趣味ですよね?」


 今度は紙ナプキンの包みがヒサくんの顔面に命中した。


「まったく、酷い言い分だ。とはいえ、ヒサの話も完全なる見当違いではないのですけれどね。僕の主収入はまた別にあるので、ここは思う存分好きにできるというわけです」


 今度はこれです、と、ラミネート加工されたA4サイズのチラシを取り出す店長。


「ダーツ大会、ですか」


 ミストにはダーツマシンがある。それをメインに据えたイベントか。

 音楽祭のように普段と違う営業になるのだろう。


「お、いいね。自前のダーツ持ってくるよ」


 横の方で会計をしていた他のお客さんが、財布を片手に投げる動作をした。


「お前もついでにマイダーツ作っちゃえば?」

「ま、ここに来ればいつでも投げられるんだし、買っちゃってもいいかもっすね」


 楽しそうな男性2人組。直接話すことはないけれど、彼らとも会釈を交わす程度の顔見知りだ。

 今までの顔見知りと違うのは、近くを通っても嫌がられない、こちらも嫌ではない、警戒しなくて良い相手という点だ。

 一度店に入る前に遭遇したことがあるけれど、そこでも特に何も感じなかった。

 彼らには、私は単に口下手で表情が硬いだけの人間だと思われているかもしれない。

 最近はそういった馴染みの常連客が増えてきている。会話はほぼないけれど。


「純さんはダーツの経験は?」

「ないです」


 ヒサくんの問いにすかさず首を振る。

 そもそも人の集う場所に行かないのだ。ダーツマシンを独自に持っていない限り、誰かと一緒になるのは必然。

 何となく興味はあったけれど、そんな機会は今までなかった。


「じゃ、一緒にやりましょうよ! 俺、教えますし。純さんも知らない人とやるよりも気楽じゃないですか?」


 完全に私も参加すること前提で話が進んでいるようだけれど、まぁいいか。


「僕もたまには本気で投げようかな。ヒサ、勝負しようか」


 店長がニッと口の右端を上げた。珍しい表情だ。


「よっし、そうと決まれば最初から最後まで投げまく……あてっ」


 会計業務を終えたテンシさんがヒサくんに拳骨を落とした。


「仕事はあるからな」

「俺だけ休みってわけには?」

「当然忙しくなる、投げるなら交代しながらだ」


 ホールの後片付けをしていたナギサさんと入れ替わるように、テンシさんはダーツ大会のお知らせを手に半個室へと消えていった。




 新しいお客さんが4人掛けテーブルに収まったのを見て、ミコトくんが接客へと向かう。

 後ろから小さく聞こえるオーダーを聞いて、メニューを開いた。

 お客さんが少ない時には、注文されたドリンクをメニューで探す。これが結構楽しいのだ。気になったお酒があれば一緒に頼んでしまうこともある。

 今もそうしてメニューの文字を急いで追っていたら、


「ところで、純さんって何の研究をしているんですか?」


 とヒサくんが話しかけてきた。

 ダーツの前に仕事の話をしていたから、その流れだろう。それこそ人が多いと聞けないことだったのかもしれない。

 私が作業を中断したからか、ドリンク待ちのナギサさんが心持ちムッとした顔になった。

 けれど、私は素直にその話題に乗った。


「フローティングウィンドウを脳波で動かす研究です」


 一般にはどれくらい理解される話なのかを知りたかったのだ。

 ナギサさんはムッとした顔から困り顔に変わり、ヒサくんは思いっきり首を傾げた。


「フローティングって、あれですよね、コンピューターとか使う人たちの。標準デバイスにはあんまり関係ない、あの」


 確かに、皆が皆持っている標準デバイスに比べて、フローティングウィンドウは使われる範囲が狭い。

 けれど、それが基礎研究の面白いところなのだ。


「このまま研究が進めば、デバイスの画面をいつでもポップアップさせて操作できるようになるかもしれないんです」

「つまり?」

「メールとかチャットとか、何なら単なる時間確認でも。いちいちデバイス本体を取り出さなくても、必要な時に目の前にポンッと」


 応用研究の更に先の展望まで話して聞かせると、ヒサくんの目が輝いた。


「両手塞がってても操作できるってことですね? そこからの音声入力とかもいけちゃいます?」


 そうだね。もしかしたら脳波入力までできるようになるかもしれない。もっとも、そこまで行くと完全に私の手から離れるのだけれど。

 そうか、やっぱりこれくらい先の話までしないと、一般には伝わりにくいのか。


「へー、凄く便利じゃないですか。早く作っちゃってくださいね!」

「ヒサ、そう簡単にできるものではないよ」


 店長がドリンク4つをトレイに乗せつつ笑いをこらえている。

 ナギサさんへ受け渡してからこちらへ向き直る。


「簡単にダブルカレーが作れるわけじゃないだろう? スパイス配合はまだ教えてもらえないし、できあがったスパイスを借りてレシピ通りに作ってもテンシの味には及ばない」


 ぐはぁ、とヒサくんが呻く。


「饗場さんの仕事は、スパイス配合を探してレシピを完成させるようなものではないですか?」


 うん、そういう感じかな。

 そしてレシピを試してみてダブルカレーの原型を作るのが榊原研だ。

 その先の研究は、テンシさんの味に近付けるための試行錯誤。

 そうしてようやくテンシさん作と似たカレーが誰でも作れるようになる。

 そう説明すると、ヒサくんにも通じたようだ。


「それでも、やっぱり楽しみです。頑張ってくださいね、純さん」


 頷いた。

 基礎研究は好きだし得意だけれど、その先にこうして技術革新を待っている人がいることも励みになる。

 それにしても、店長から助け船が出てくるとは思わなかった。

 物言いたげな私に気付いたのか、店長は少し眉を上げておどけたような顔になった。


「実は、僕も元は研究者だったんですよ。10年近く前に高等研究院にいました」


 おっと、飲食店店長が研究者だったとは。異色の経歴とでもいうのだろうか。


「何を研究されていたんですか?」


 俄然興味が沸く。

 似たような分野にいたのなら、面白い討論ができるかもしれない。場合によっては論文を読んでいるかも。何せ店長の名前なんて知らないのだ、既に読んでいる可能性は否定できない。


「僕は文系ですよ。近現代社会に関することを調べていました」


 おや、残念。せめて生物物理学や機械工学であれば、自分の知識にない話を聞けるかと思ったのだけれど。


「はー。俺にはどちらも縁遠い話でよく分からないです。ミコトも高等院にいるし、皆して頭いいんですねぇ」

「安心しろ、研究と実務は別だ」


 オーダーされた食事を作ろうと準備していたテンシさんが、珍しくヒサくんをフォローした。


「だからさっさと腕を上げるんだな」


 フォロー……だったのだろうか。



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