14.
個人の感覚だけでは人を納得させる材料にならない。
けれど、そもそもアツの笑顔も言葉にできないままで捉えているのだから、それと似ているナギサさんの笑顔だって直感で見極めただけなのだ。他に言い様がない。
上手く説明できないことに悩んだけれど、ナギサさんはそれ以上追求せず、
「ばれたのは初めてです」
と言ってドリンクを一口飲んだ。
「今更誤魔化しても仕方がないので白状しますけど。お察しの通り、私は基本的に仮面を着けて生活しています」
誰にも言わないで黙っていてください、という真剣な口調に頷く。もとより言いふらす気はない。
私の了承を確認して少し肩の荷が下りたらしい。飾りのオレンジの皮を剥きながら、
「仮面を使うと人間関係を円滑にできるんです。常に周りの顔色を窺って、それに合わせる。ま、だいたい笑顔でいれば何とかなるんですけどね」
と言い、実をぱくりと口に入れる。あっという間に咀嚼して飲み込んだ。
仮面という割にはよく動いていると思う。アツもそうだけれど、固まった表情ではない。
笑顔と一口で言っても、くしゃりと崩れる笑顔もあれば、口角が僅かに上がるだけの控えめな笑顔もある。眉を下げた苦笑もあれば、声を上げる笑いもある。笑えない時には笑わない。
あくまで自然だ。
アツにしろ、ナギサさんにしろ、その技術と精神力が凄いと思っている。静かな無愛想の方がよっぽど楽だ。
「とぼけても良かったんですが。どうして見破られたかが知りたかったんですよね。今後の教訓に活かそうと思った、ん、ですけど」
勘かぁ、と呟いて、ドリンクを半分ほど一気飲みしたナギサさん。ケプッと軽くゲップが出たのを空咳で誤魔化してから、
「対処のしようがないですね」
と溜息をついた。
「たぶん、今まで通りで大丈夫かと」
自分で言うのもなんだけれど、レアケースだろう。
それにしても、初めてばれた、とはね。
「ただ、私が見ている限り、何度か外れていましたよ」
音楽祭の時は顕著だった。準備期間中も、本番の最中も、珍しい表情をするものだと思っていた。
「マジですか」
無意識だったか。彼女の精神力も鉄壁ではなかったようだ。
「他の人は分からないでしょうけれど、確約はできません」
予防線を張っておいた。
テンシさんは観察眼が鋭いと睨んでいる。気付いている可能性はある。何も言わないのだから案じなくても良いと思うけれど、そういう話ではないのかもしれない。
ううぅん、と唸ったナギサさんは、やがて大きく伸びをした。
「純さんが言うなら間違いなさそうですね。気が緩んでいたのはビックリですけど、分からなくもないかな。ここには敵がいないって感じているのかも」
腕の力をだらんと抜いてから、両肘で頬杖を突いたナギサさん。随分幼く見える。
「最悪の環境から完全に逃げ切れた、っていう安心があるんでしょうね。あんまり気を許すと怖いので、ちょっと注意しておきます」
深くは聞けない。たとえコミュニケーション強者であっても聞かないのではないだろうか。
黙ったままオレンジジュースを口に含む。美味しい。
急に立ち上がったナギサさんは、再びカウンターに入り、屈んでごそごそしたかと思えばミックスナッツを皿に出してくれた。
カウンターを出ながら、
「一度着けちゃうと楽なんですよね」
とポツリと呟いた。
「というよりも。私はね、仮面を被らないと生きていけないって考えています。それ以外の生き方を知らない」
率先してアーモンドを口に放り込んだナギサさんは、ゆっくりと飲み込むまでの間しばらく黙っていた。一口ドリンクを飲んでから、
「当たり障りなく、人の顔色を窺って、笑顔を絶やさず。私、そうやって乗り切ってきたんですよ。そうした方が上手く生きてこられたし」
何かを思い出すかのように遠い目をしながら、自嘲めいた笑みを見せるナギサさん。
「仮面があると内心が隠せるからですか?」
「それはもちろんありますけど、でもちょっと違いますね」
それ以外にも利点があるのだろうか。
「仮面越しにね、相手を見て対応を変えるんです。例えば今の純さんの場合、私が話をリードするべきだって考えて率先して話すようにしているし、必要以上に口を開かなくても良いようにって考えて飲み物とお菓子を準備しました」
え、そういう意図だったの? 手の中にあるオレンジジュースをまじまじと見つめる。
「今は仮面を外してますけど、行動原理は一緒です。仮面っていうのはですね」
ストローから手を離してナギサさんが宙を見据える。
「何というか、マジックミラーというか……うーん、それも何か違うけど。とにかく、外からは中が見えないように、中からは外の様子を窺えるように、っていう膜を張ってる感じ、ですね」
1つずつ言葉を探るように、宙に指を振りつつ話を続けていく。
「外の様子が見えるから、外側に映し出す表情や仕草を切り替えられる。中を見られないようにすると同時に、外を切り替える。そういうものが私の仮面です」
やはり随分と器用なことをしている。
「誰でも多かれ少なかれ同じようなことをやっているんでしょうけど、私はとにかく中のドロドロを見られないように、つけ込まれないように、そうやって生きてきました。人間関係なんて平穏無事が一番なんです」
そう言うと、残り少なくなった飲み物をジュルルッと飲み干してカウンター内へ戻っていくナギサさん。何やらお代わりを作っているような気配がする。
平穏無事が一番、それは確かにそう思う。
私は人を遠ざけることでそれを実現させ、彼女は自分を取り繕うことで実現させているのだろう。
すぐにカウンターに戻ってきたナギサさんの手にあるのは、無色透明の泡立つドリンク。ただの炭酸水だろうか。
そして今度は、個包装になっている一口チョコレートを出してくれた。
オレンジジュースと合うのかと一瞬怯んだけれど、ショコラオランジュを思い出して1粒口に入れた。口を開かないという意思表明ではないけれど、出してくれたのだから好意には甘える。
うん、美味しい。
「私は表面的に当たり障りなくが信条ですけど、純さんは距離は取っていても裏表はないですよね。何となーくですけど、純さんって周囲の人に恵まれてきたタイプかなって思ってます」
裏表、ないのだろうか。
それ以前に、そもそも周囲に人がいなかったのだから、恵まれたも何もないと思うのだけれど。
「周囲の人なんていなかった、って顔をしてますね。うん、でも、数少なくても何人かとは接してきましたよね? 親とか、学校の先生とか、職場の人とか。そこで外面装備しなくても大丈夫だったってことだろうなーって」
「仏頂面って分厚い装甲のような気がしますよ」
仏頂面を装備したから人を遠ざけられたのか、人を遠ざけたから仏頂面になったのか。そもそも他人がどうであれ無愛想なのか。
厳密に区別することはできないけれど、どうあれこれが私の通常運転だ。
「ふむふむ、なるほど。じゃ、こう言います。純さんは外と中の間に仏頂面っていう壁を作っている。でも実のところ、中は結構素直。だから敵は少ない」
彼女から視線を外し、私はここまでのやり取りを脳内でまとめ直す。
私も彼女も、人間関係に不安を持っている。
彼女は仮面を作り出すことで対処し、私は人と関わらないことで対処した。
ナギサさんの方が徹底していて、それだけ彼女が「多くの人間関係を構築しなければ生きていけない」という切迫した状況だったと言える。
ミコトくんの、不幸自慢をするつもりはないけれど、の一言が蘇る。単にむすっとして人を遠ざけるだけで済んだ私はラッキーなのだろう。
私は、今の仕事を続けられていることが幸せだし、アツという存在がいたことが幸せだし、ボスが助けてくれることが幸せだし、そう考えると、ナギサさんの言うように周囲に恵まれている。家族にも恵まれた。
数少ない人との交流が、私の中身をのほほんとしたものにしているのだろうか。それが素直という評価に繋がるのだろうか。
生きにくいけれど自分が嫌いではない。この自己肯定感の出所はここなのだろうか。
人に憎まれるのは嫌だけれど、幸い今までそんな事態にはなっていない。その理由の1つがこれなのだろうか。
端からは彼女は穏健で私は気難しいと見えるのだろうけれど、内情は本人たちにしか分からない。
ひとしきり脳内を整理した私は、ようやく顔を上げた。
と、ナギサさんは先程のぬいぐるみを矯めつ眇めつして笑顔を浮かべていた。
「あ、考え事、終わりました?」
頷く。
それにしても、今のナギサさん。何と言うのだろう、笑顔がこらえきれない感じ……ニヨニヨ、とでも言い表すのだろうか。心の底から楽しそうだ。断じて作った笑顔ではない。
「ふっ、ふふっ、楽しそうに見えますか? はい、楽しいです、嬉しいです」
ニヨニヨとした笑いからニコニコとした笑いに変わる。
「新しい推しができて良かった。どこにいても推しは生きる元気をくれます。どんなに辛くてもそのお陰で頑張れます。生き甲斐です。幸せは大事です」
オシ、というものが何なのかは分からないけれど、このぬいぐるみを指していることは分かった。ナギサさんの情熱が注がれていることも分かった。
幸せ、ね。私の幸せは何だろう。
小さな幸せはよく感じる。
質の良い睡眠が取れた朝は幸せだ。実験が仮説通りの結果になった時は幸せだ。美味しい料理を食べると幸せだ(だから何でも美味しく食べられる私は、食に関する幸せのハードルが低い)。
ナギサさんのように情熱を傾け、生き甲斐だと言える程のものはないけれど、改めて考えてみると幸せに囲まれている。
生きにくいけれど、私が生きる毎日は嫌いではない。
好きに生きられる現状は幸せだ。この小さな幸せに囲まれている現状が人生で一番大切なことなのではないだろうか。
真面目に考えていたところに、
「ということで、純さんにお願いです。さーくんグッズがあったらゲットしてこっそり私にください!」
というナギサさんの弾んだ声が響いた。
本題が何だったのか、一瞬見失った。
オレンジジュースのお代わりと新しいチョコレートが出てきた。今回の飾りは綺麗だ。
さっきから気軽に食べ物飲み物を出しているけれど、大丈夫なのだろうか。
最初の1杯は練習台だからと言っていたけれど、ナッツやチョコレートは練習ではあるまい。
「女子会です、女子会。私のお給料から引いておきますから問題ナシです」
女子会とは、これはまた……噂でしか聞いたことのないものだ。まさか実体験できるとは。
そういえばテンシさんが、ナギサさんは毎日お店にいる、と言っていた。
「毎日仕事なんですよね」
そうですね、と明るく肯定したナギサさん。
「見習いだからっていうのもあるし、この辺りに疎いから常識を学ぶためっていうのもあるし、店にいると安心できるからっていうのもあるし、早くお金貯めたいっていうのもあるし、毎日いる代わりに拘束時間は短くしてもらってるから自由時間はむしろ多いし、すぐ上に住んでいるから出勤も楽だし、他にも色々。
あ、自分から進んで仕事してるだけなので、ホワイトな職場ですよ? マスター責めないでくださいね?」
本人が喜んでいるなら良い。変則的だろうと仕事が楽しいのは私も同じだ。
「ここには友達もいないし、変に付き合わなきゃいけない先輩とかもいないし、下手に外に出ると迷うし」
友達か。
私の僅かな反応に気付いたらしいナギサさんが、どうしたんですか、と眉を上げた。
「どうなれば友人と言えるんですか?」
「え、どうしたんです急に。っていうか、私の意見でいいんです?」
頷く。サンプル数は多ければ多い程良い。ナギサさんの場合はどうなのかを知りたい。
「シンプルですよ。休日をその子のために使ってもいいと思えれば友達です」
「内心を見せなくても友人ですか?」
「確かに上辺だけの関係ですけど。それでも友達ですよ」
そういうものだろうか。もっと深い繋がりがあるのが友人関係かと思っていた。
休日をアツのために使っても良いかどうか。うぅむ、この評価基準だと微妙だな。アツの方もそうは思っていないだろうし。
そうだ、もう1つ気になっていることについても聞いてしまおう。女子会は他愛ない話をする場だという。
「じゃあ、付き合うっていうのは」
「純さん、付き合いたい人がいるんですか?」
「違います」
「即答ですか」
それはそうだろう、周りから聞かれるから考えておきたいだけなのだから。
「そうだなぁ、休日だけじゃなくて平日も時間を割いてもいい、っていう同士がつるむことかな」
ううぅむ……平日に時間を割くのはいつものことだ。ああ、だから周囲は私たちが付き合っていると思っているのか?
「腑に落ちました」
「純さんが納得した内容って、なんだか、どこか危ういって予感がしますけど」
いいのかなぁ、と呟いたナギサさんは、炭酸水をズズズと飲み干した。




