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12.


 夏。院関係者の大多数はバカンス中だ。


「あーあ、テスト採点さえ終わればなー、僕も長期休みなんだけどなー」


 ふざけた口調でそんなことをぼやいているアツだけれど、実際のところ、春学期テストの採点に外国出張の準備にと、彼は今とても忙しい。

 よって変に構ってくることもない。

 面倒がなく楽なはず、なのだけれど、たまにどうにも落ち着かない。アツとの馬鹿話が一種の精神安定剤になっているのかもしれない。

 今までにはないことで少々不思議な気分になっている。これも友人効果なのだろうか。


 院で夏の長期休暇が一般化している背景には、いくつかの事情がある。

 その中で最も大きな理由は「物理的に仕事ができないから」だ。

 国家公務員である事務職は休暇を義務付けられているために出勤しない。

 加えて、電力の大幅カット。コンピューターくらいは問題ないけれど、研究に必要な機械の大部分が動かせなくなる。

 それでも研究をしたい人は外国で行う。たいていの研究室は他国に共同研究者がいる。彼らの所へ赴くのだ。

 あるいは、直接の研究ではなくとも、長期休暇を利用して別の研究者との繋ぎを作ったり、フィールドワークの下見へ行ったり、などなど。

 ただ、大多数は純粋にバカンスを楽しむようだ。年に1度の命の洗濯だと榊原教授が笑っていた。

 アツは仕事半分バカンス半分らしい。

 このための国際免許だとか何とか言っていたけれど、何がどうなのか正直よく分からない。バイクか車か、その辺の話なのだろうけれど。

 私はどうかと言えば、ジェームズたち共同研究者はいるものの、当然そこまで行く気はない。だから大橋研に残る。


 長期休暇は人がいなくなるから、私としては非常に過ごしやすい時期である。

 いくら私でも多少は周囲に気を遣っている。

 勤務を22時開始にしたいところを15時開始にするくらいには気を遣っている。

 人がいなければ堂々と平日の夜間勤務ができる。出勤時間が適当であろうが、なんなら休もうが、全く問題ない。

 むしろ休まなくて良いのかとフィリップに心配されたくらいだ。

 長期間休んだところで何をするでもなし。遠出するにはアツの協力がないと難しいし、せいぜい積ん読本を片端からやっつけるくらいだろう。

 その程度なら1ヶ月も2ヶ月も休む必要はない。数日で足りる。

 1人では研究は進められないけれど、1人でできる仕事だってある。コンピューターだけで行える仕事も案外多いのだ。

 家や外出先でできるものも少なくないけれど、セキュリティのかかったデータも扱えるから、やはり研究室の方が捗る。

 こうして、好きに出勤して好きに休むという生活ができあがる。

 それに合わせて、ミストへ赴く回数も増えた。

 食事とお酒を楽しむのも目的だけれど、とにかく気が楽になる恩恵が大きい。

 仕事前にリラックスできるのはその後の効率にも関わってくるのだ。



 ***



 一方で、世間は夏バカンスとは縁遠いらしい。

 平日のミストに来るようになったのは夏休暇が始まってからだけれど、他のお客さんの様子を見ていると院とのあまりの違いに少々戸惑う。

 ここでも世間と院との乖離がある。


「最近は長い夏休みも増えてきているみたいですよ」


 とヒサくんが教えてくれた。

 話を聞くと、今までは多くが数日から1週間といったところだったとか。私ならいざ知らず一般人には辛いのではなかろうか。

 とはいえ、ミストが長期休みになってしまうと悲しい。難しい話だ。

 言葉少なに内心を零すと、テンシさんが淡く微笑んだ。


「気にしないでください、店の営業は店長の判断です。店員に恵まれたと、あの調子で笑っていました」


 平日にも通うようになって分かったのだけれど、ミストは基本的に毎日営業だ。

 ただしスタッフは交代で休んでいる。店長がいない日でも店が回るのはテンシさんのお陰だろう。

 確かに、スタッフに恵まれなければ定休日なしは無理だと思う。


「年中無休なんですか?」

「年末年始は仕入れができませんから、そこはさすがに休みます」


 それなら年越しは例年通りに部屋で1人だな。

 普段と同じなのにどこか寂しく感じる。今までだと考えられないことだ。

 夏のうちに年末のことを考えるなんて研究以外では初めてかもしれない。

 いや、一度だけあったな。初等院1年の夏休み、長期休みも寮で過ごすための手続きをしていて、冬にも同じ手続きがいるな、と考えたのだった。それ以来か。

 テーブル席の2人組から注文を受けて戻ってきたヒサくんが、そういえば、とカウンターに両肘を突いて身を乗り出してきた。


「最近、純さん、たくさん来てくれるようになりましたよね。1人暮らしなんですか?」


 ごっ、と音がした。

 ヒサくんの後頭部に下げられたグラスの底が押し当てられている。

 私生活に踏み込みすぎではないか、という意味を込めた鉄拳制裁ならぬグラス制裁だろう。


「いや、ナギサん。これ、さすがに危なくない?」

「心配しないで、強化ガラスだから」

「いやいや、せめてそっちのトレイにしておこう?」


 左手に抱えていたトレイを見下ろし、ん、と呟くナギサさん。あ、これ、次は本当にトレイでいくね。

 ナギサさんが助け船を出してくれたお陰で、気を取り直し、一瞬飲み込んでいた呼吸を再開できた。


「1人暮らしですよ。気ままなものです」

「自炊しないんですか? 俺たちとしてはありがたいですけど、外食ばっかとか?」


 ナギサさんがトレイを引き寄せたのを見て、手で制する。大丈夫。


「あんまり。コスパ悪いですし」

「ああ、1人だと上手くやらないと廃棄増えますもんね」


 ヒサくんの言葉に頷く。

 1人暮らし歴は長いから、自炊だってやろうと思えばできる。けれど、買ってきた方が時間も食材も無駄がないのだ。だから出来合いで済ませることが多い。


「どう考えてもミストの料理の方がいいから、最近は特に楽しています」


 へぇ、と目を輝かせたヒサくんだけれど、それ以上続ける前に注文品ができあがった。

 カクテルと焼酎ロックを受け取ってフロアへと戻っていくヒサくん。こういう風にきちんと仕事をする点に好感が持てるのだ。

 ヒサくんに身構えてしまうのは、話の内容以上にその態度が原因だ。

 初対面の時から感じていたけれど、やたらとグイグイくる。仰け反って1歩後退して更に固まりたくなる。

 軽い雰囲気だけれど滅多に近付いてこないのがミコトくん。楽しげな雰囲気で寄ってくるのがヒサくん。

 一方で、彼の話す内容に関してはさほど気にならない。

 深入りしてくる話題も多いとは思うけれど、答えられないという程ではない。

 それもあって、私はここに来てからポツポツと自分の話をするようになったのだ。あっさりした性格だからなのか、そういう機微に疎いからなのか。

 私は空気が読めないから黙り込む。ヒサくんは逆に、空気を読めなくても構わないと言わんばかりに喋る。

 どちらもコミュニケーション上手ではないのだろうけれど、ヒサくんは何だかんだとミストの皆に愛されているように見える。

 私も慣れてきた。まだ少しフリーズしてしまうけれど、誰かがヒサくんにゴツンとしている間に気持ちを立て直せるようになってきた。

 お陰で、最近はこうして話が続く。


 ヒサくんとは対照的なのがテンシさんとナギサさんだ。この2人は、こちらの様子をよくよく観察して対応していると感じる。

 その上でテンシさんは必要な時にだけ口を開くし、ナギサさんは押しつけがましくない受け答えをする。

 店長は……軽やかで、温かく、人を安心させる。アツとはまた違ったコミュニケーション上手。そんなイメージだ。

 こうして相手をじっくり見るのもアツと知り合った時以来だ。

 それくらいミストの皆と近付いたとも言える。近付いたところでアツのようにならないのは、やっぱり友達かどうかが関係しているのだろうか。



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