11.
アツの様子が最近おかしくなっている。いや、狂っているとかそういう感じではなくてね。何かと構ってくるようになったのだ。
今日は、
「ねぇねぇあいちゃん。僕もジャックたちみたいに純って呼んでもいい?」
私の隣の席から椅子をゴロゴロ引き摺ってきて後ろ前に座り、私のウィンドウを覗き込みながら、唐突にそんなことを言い出した。
ジャックというのはジェームズのことだろう。私が今メインで組んでいる外国研究者はジェームズとフィリップとパウルだ。彼らは私をファーストネームで呼ぶ。
「えぇっと……いや、わざわざ聞かなくても、いつでも呼び方を変えてくれていいんだよ?」
「今更急に呼び方変えたらびっくりするでしょ?」
まぁ、するね。宣言されるのも変な気分だけれど。
キーボードを叩く手を止めて、アツへと視線をやる。こいつはいきなり何を言い出したんだろう?
「んー、でも、純って呼び捨てよりも、やっぱり純ちゃんって言いたいなぁ」
「す、好きにどうぞ?」
あいちゃんと独特な愛称で呼んでいる現状からすれば、些細な違いだと思う。
「うん、よしよし、これであいちゃん……じゃなかった、純ちゃん籠絡の第一歩が完了だね」
隣室の研究生くんがマグカップを取り落としたようで、ごとりと音が響いてきた。私も思わず消さなくてもいいウィンドウを握りつぶして閉じてしまった。
前言撤回。やっぱり狂ってきているのかもしれない。
早朝。今日はだいぶ頑張ったから終わるのが遅くなった。
帰宅準備をしていると、徹夜明けの研究生くんと出勤してきたボスが隣室で話しているのが聞こえてきた。
「ボス、お2人って付き合っていないんですか?」
「あれねぇ……どうなんでしょうねぇ……。私、息子や娘の交際に関しても全然分かっていないわねって奥さんに呆れられているくらいですからねぇ。私に聞いても見当外れかと思いますよ」
「だって、常にいちゃいちゃしてますよね」
「私にコメントを求めても駄目ですよ?」
眠気で注意力散漫な研究生くんはともかく、在室プレートを見て入ってきたボスは私がいることに気付いている。
つまり、本人に聞けと暗に促している。
しかし、そう言われても。
だいたい、付き合うの定義は何だろうか……。友人とは何かも分かっていなかった私には、ハードルの高い問いだ。
研究生くん程ではなくとも疲労が溜まっているから、これ以上頭を働かせるのは億劫だ。
そういう考証はそのうち、と面倒事を放り投げて、リュックを背負った。
***
翌日、改めてアツと話をすることにした。
「ところでアツ、昨日言っていた籠絡だの何だのっていうのはどういう話?」
私だけでなく隣室の研究生くんも気になっているのだろう。微かなキーボードの音が止まった。
「んー? なぁんか、あいちゃ……純ちゃんってちょっと変わっちゃったでしょ?」
何かが変わった自覚はないけれど、やっぱりアツにはそう見えているらしい。
「どこかへ行っちゃいそうな嫌な感じがあるからさ、今のうちから手を回しておこうかと」
「つまり?」
「友達だとも思われていなかったことにショックを受けたから、僕たち仲良いよねアピールを積極的にしていこうかなって」
それにさ、と口を尖らせたアツ。
「最近純ちゃんといても物足りないっていうか、もっと引っ付いていたいっていうか」
「変態か」
いや、そもそも人嫌いで通っている私とじゃれ合っている時点で一種の変態だったな。
ミコトくんに言われた、あの人は何か変だ、という一言が蘇る。変だな、うん。
私の暴言にも、アツは悪戯っぽさを滲ませた笑顔のまま。
……かと思いきや、ふっと外行き笑顔に変わった。
その直後、部屋にノック音が響く。
「よく分かるね」
「ん? 何のこと?」
来訪者に気付くことだ。
アツは扉がノックされる前に笑顔の質をさっと変えることが多い。
それを指摘して良いのかどうか迷う。本人はとぼけているのか、それとも自分でも気付いていないのか。
今日はセキュリティ解除の依頼ではなく、出入り業者のサンプル配布だった。
応対に出たのがアツだったからか、かなりホッとした顔をしていた。
今日は夕方の訪問になってしまい戦々恐々としていたのではないだろうか。
私は仕事で必要ならば人と接する覚悟があるけれど、相手もそうとは限らない。
できれば接触したくないと思われているだろう。
その反面、私は使えるものはとことん使うから大量発注も多いし、提案された新製品も一度は試してみるから、取り引きし甲斐はあると思う。
ここでもまた、仕事と私情の天秤が働く。どこまで私の担当でいられるかで成績が変わる。
研究室が変わっても取り引きを続けている相手は2社あるけれど、私が大橋研に移った段階で来なくなった相手も2社。思ったよりも残ったな、というのが正直な感想だ。
ただ、片方は担当が変わった。むべなるかな、だ。今の彼は、この4月に新しく担当になった人だ。
彼らはモニター越しではない分、機械やシステムのような感覚になりにくい。
だから私としても相対するのに覚悟が必要だ。
そして、どこかで恐れている。憎まれて仕事にならないのではないか、と。
けれども、幸いと言って良いのかどうか、彼らに対する恐れはそれくらいだ。
仮に憎まれても付き合いを止めれば良いという逃げ道もある。
私にはもう少し恐れていることが1つだけある。
……――。
「はい、純ちゃん」
サンプルを目の前に差し出され、ぼんやり眺めていたドアから視線を引き剥がす。
「ありがと。アツも使ってみる?」
「んー、純ちゃんが使って良い感じだったら考える。人柱、よろしくねー」
はいはい、いつものことだ。ヒラヒラと手を振ってアツを追い返す。
聞きたかった籠絡云々の問題はとりあえず解消した。
私に倣って手を振りながら踵を返し、そのまま隣室へと消えていくアツ。その瞬間、急に、鳩尾がムズっとした。
最近たまに感じるのだ。特に異常はないと思うけれど、次の定期検診の結果は注意してみることにしよう。




