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10.


 普段音楽を聴かないために分からないことが多いけれど、分からないなりにも楽しいものだね。

 のんびりグラスを傾けながらそう思っていると、すぐ横にミコトくんが現れた。

 ナギサさんに水を貰って一気に飲み干したミコトくん。

 テーブル席へ行くのか、あるいは楽屋代わりの半個室で休むのか、と見ていたら、そのまま私の横に腰掛けた。

 避けられるとばかり思っていたから意外だ。

 ミコトくんが倒れたのは昨日だ。しかも何回もステージに上がっている。疲労による発熱と体力消耗とのことだったから、まだ万全と言えないのではないか。

 こちらを窺う女性客の視線を感じる。

 ミコトくんも分かっているらしく、振り返ってウインクやら投げキスやらをしている。ひゃぁと高い声が上がりかけたところで次の曲が始まった。

 ステージに上がっていたのはテンシさんと店長。

 テンシさんはサックス、店長はピアノを演奏している。

 私でも知っているジャズのスタンダードナンバーだ。定番なのだけれど、曲名までは知らない。


「さてと。純さん、お話してもいいですか?」


 普段のチャラい感じから打って変わり、少し気怠げな雰囲気になったミコトくんが、


「ナギサさん、シェイク練習しようか。シンデレラ1つ」


 とオーダーしてカウンターに身を乗り出す。

 向こう側から灰皿を掴んで、すぐ思い直したように手を離した。


「最初にお礼を言っておかないといけないですね。助けてくださってありがとうございました、先生」


 先生なんて呼ばれ慣れていない尊称を急に言われ、僅かに動揺する。

 ひくっと一瞬眉を寄せたミコトくんだったけれど、何事もなかったかのように言葉を続けた。


「あの男性にも、よろしくお伝えください」


 ミコトくんの丁寧語はどうにもムズムズする。普段通りにお願いする。


「じゃ、お言葉に甘えて。改めて、ありがとうね。……それにしても、純さんが院で噂の『呪い女』だったなんてびっくりしたよ」


 呪い女。初めて聞いたけれど、言い得て妙だとむしろ感心する。

 口にした本人は私の顔色を窺っていたようだけれど、しばらくしてふっと息を吐いた。


「怒らないんだ?」

「どちらかというと感心したね。そうか、そういう風に噂になっているのか」


 あまりに周囲に人がいないせいで、そんな噂も耳に入らなかった。

 アツは知っていただろうけれど、それをわざわざ私に聞かせるような奴ではない。


「近くに寄ったら気持ち悪くなる、とでも言われている?」


 ナギサさんからドリンクを受け取りつつ頷くミコトくん。


「そうだね、それもある。ざっくり言うなら、極度の人嫌い、近付くと呪われる、生機情(セイキジョウ)の方に出没するから近寄るな、って感じ」


 生機情――生物機械情報学部は私の勤務先である大橋研究室のある学部だ。

 なるほど、無責任な「研究院の怪談」風になっているけれどなかなか当たっている。

 再び感心すると、カクテルを一口飲んだミコトくんが、凄いな、と呟いた。

 ナギサさんがパッと顔を上げたけれど、ごめんナギサさんじゃない、純さんが怒らなかったことだよ、と手を振ってこちらに向き直った。


「純さんが研究院で働いているって聞いても呪い女と結びつかなかったのはさ、純さん、別に人嫌いじゃないでしょ?」

「いや、人嫌いだよ」


 人と関わるのが嫌いだ。だから人嫌い。


「俺たちとは普通にしてるでしょ。最初はぎこちなかったけどさ、今でもほら、普通に話してる」

「なぜか知らないけれど、ここは例外なんだよ。話は相変わらずぎこちないと思うし」

「これくらいなら普通でしょ」


 事も無げにそう言ったミコトくんは、なるほど、と小さく独り言を零してから、


「正直さ、あの時純さんが近くに来たら余計に苦しくなったんだよね。俺の体調が悪かったのもあったんだろうけど」


 シンデレラをもう一口飲んで首をぐりんと回す。


「俺、持病……とはちょっとニュアンス違うけど、少し面倒な体質でさ。勝手に人が寄ってくるけど俺自身は人に近寄られるのが苦手。体調に影響するくらいには苦痛」


 ここであちこち引っ張りだこなミコトくん。私生活でもそうらしい。

 私も人に近寄られるのは嫌いだけれど、体調にまでは響かない。単に気持ち悪いだけだ。それに私の場合は人が避けてくれる。

 ミコトくんは逆らしい。それは辛いだろう。


「あの時は前の日に美月街(みつきがい)へ遊びに行かされて、しんどさが消える前に院で同期に囲まれて。それで倒れたってわけ」


 ここから一番近い繁華街が美月だ。

 いわゆる不夜城で、夜中煌々と明かりがついていて人も多い。

 遊んで体力を削られ、更に人混みで辛くなり、翌日も休めず、そして暑かった。

 それが重なったということか。


「もう大丈夫なの? 私の隣に座っているけれど」


 私の方は気持ち悪さをほとんど感じない。

 お酒の力と、このお店の不思議さのお陰だと思う。

 けれど、私が大丈夫だからミコトくんも大丈夫とは限らない。復活しているようだけれど、これでまた具合が悪くなったら申し訳ない。

 心配は杞憂だったようで、緩く首を振られた。


「俺ね、ここでは不思議と平気なの。ま、バイト始めて1年経っても理由は分からないんだけどさ」


 ただねぇ、とカクテルグラスを空にしてから天井を見上げている。


「外よりマシとは言っても、人は寄ってくるし多少は疲れるんだよね」


 人の病気の話に首を突っ込むのは良くないと、人付き合いのない私でも知っている。

 深く追及するのは避けようと聞き流し、ナギサさんに今と同じものを追加注文した。

 ミコトくんもそれ以上続けず、今度はトニックウォーターを頼んでいる。ナギサさんの練習は早々におしまいらしい。


「純さんに聞きたいことがあるんだ。俺を保健部に連れてって面倒見てくれた……あの、歩く人形みたいな人って、純さんのトコの准教授でしょ?」


 何だその怖いたとえは。


「そう、私の上司。物凄くできる奴」


 私の言い方がざっくばらんだったからか、何かを言おうとしたミコトくんがそのまま動きを止めた。


「アツは研究生時代の同期なんだ。あの頃から今まで、私の近くに寄ってこられるただ1人の……」


 おっと、もう違うか。このバーの人たちは私のすぐ横に座れる。


「いや、うん、私の近くで平気にしていられる珍しい人なんだよ」

「そうなんだ」


 相槌を打たれてから、沈黙が下りた。

 何かを言おうと言葉を探している様子だったから、私は新しいラスティー・ネイルに口を付ける。

 生演奏BGMの楽しさ、心地良さもあり、今日はいつも以上にペースが速い。せっかくなら最後までいたいし、次からは度数を少し下げるのもいいかもしれない。


「そんなに深い関わりだったなんて思わなくて。でも気になるから聞いちゃうね」


 ミコトくんの質問は、曲の切れ目とちょうど重なった。


「あの人、いったい何者なの?」




 新しくオーダーを持ってきたらしいヒサくんが、


「なになに、痴話喧嘩?」


 と茶々を入れてきて、ナギサさんにダスターを投げつけられている。

 ミコトくんは鼻で溜息をついただけで反応を返さず、私の回答を待っている。

 それにしても、何者か、かぁ。求められているのは通り一遍の説明ではないだろう。

 ミコトくんが疑問を持ったきっかけは何だろうか。


「具体的に何が知りたいの?」

「んー……そうだな」


 何かを玩ぶかのように片手の指を蠢かせつつ、上目遣いで天井を見るミコトくん。


「上手く言えないけど、あの人、何か変だ、って思ったんだよね」


 変、か。


「私とまともに接している時点で相当変人だとは思うけれどね」


 私の一言にミコトくんはクッと小さく笑い声を上げた。


「いや、ごめんね。そっか、純さんはそういう風に思うのか」


 仕切り直すように深く息を吐いて、


「俺、人に寄られるのが嫌って言ったでしょ? あれね、何かネガティブな感じが他人から流れてくるからなんだけど」


 と再び気怠げになりながら、今度は詳しく話をしてくれる。


「あの人からはそういう嫌な感じを一切受けなかったんだ。それどころか、何も、なーんにも、出入りしなかった。だけど、それって何か……」


 言い淀んでから、私から目を逸らして、


「何か変だよね。ちょっと気持ち悪い」


 と吐き出した。

 ふむ。


「嫌な感じっていうのは、人のイラッとした雰囲気が過敏に感じられるとか、そういう?」

「うん、それに近いと思ってくれていいよ」

「うーん……あいつは凄い奴だし、私からすると完璧人間だけれどね。聖人君子ではないよ」


 疲れてだらっとするし、面倒なことに対してぼやくし、何かよく分からないことでムッとする。極力人に見せないようにしているようだけれど、存在しないわけじゃない。


「横で見ていると分かる。あいつは隠すのが上手いからなぁ」


 まだ納得のいかない顔をしているミコトくんだけれど、しばらくしてストローから口を離した。


「俺さ、『呪い女』のこと羨んでた時があって」


 呪い女のどこに羨む要素があるのだろう。


「1人でもそういう人がいれば、やっぱり違うのかな」


 話が急に飛んだ。何と言えばいいのか悩んでいる間に、ミコトくんは先を続けた。


「俺は、ホントに1人が楽。でも、俺の体質に何も関係なく付き合える奴が欲しいって気持ちもある。純さんとあの人みたいな、さ」


 矛盾しているような言葉だけれど、私にはその気持ちが分かる気がする。

 アツと出会ったことで救われた部分は、確かにあるのだ。

 ミコトくんはストローでグラスの氷をくるくる動かしながら、ステージを横目で見やった。


「ミストの店員は、まぁ楽な相手だけどさ。ほら、仕事でしょ? そうじゃなくて、プライベートで」


 アツは私の仕事仲間だけれど、どうやら友人でもあるらしい。ミコトくんの場合も重要なのは友達であることなのか。


「嫉妬したんだよね。人が近寄らないっていう呪い女の特性にも、それでも1人は近付けさせる相手がいるってことにも。それが彼氏だっていうなら尚更」

「念の為に言っておくよ、アツは彼氏じゃない」

「え、そうなの? 今の口ぶりからてっきり。ごめん」


 謝られる程ではないけれど、勘違いされたままなのも落ち着かない。

 話の流れからして友人か彼氏かの違いはたいした問題ではないだろう。きっちり訂正しておく。


「とにかくさ。俺より純さんの方が少しだけマシだよな、って、不幸自慢したくはないけど、そう思っちゃったんだ」


 上を向いて細く長い息を吐いたミコトくんが、不意にこちらへ向き直った。


「純さん、歳いくつ?」


 不躾といえば不躾な言葉だけれど、私は気にしない。


「今年で32」

「え、案外……」


 案外何だと言うのだ。誰も幸せにならない問いのような気がして、その一言は飲み込む。

 ミコトくんは何も気にせず真面目な顔で腕を組んでいる。


「ふーん……それくらいの歳になれば俺にも見つかるかな」

「何が?」

「そうやって分かってくれる、っていうか、近寄らなくても一緒にいられる相手、っていうか」


 30超えれば見つかるかどうか、ねぇ。


「さっき少し言ったけれどね。私、研究生1年の頃にアツと知り合っているよ。春学期が終わったすぐ後だったから、当時は18歳か」

「え、俺、とっくに超えてる」


 彼の腕組みがほろりと解けて、言葉が途切れた。

 やがて小さく


「やっぱり嫉妬する」


 と呟かれた言葉は、また曲の切れ目と重なり、私たちの間にヒサくんの楽しそうな顔が差し込まれた。



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