第4話 昂っているんです
「はぁ……情けない。客の駆け落ち話なんて真に受けるなんてね」
後ろから現れたのは、頑丈な麻ロープを手に握りしめた女将だった。
ロープは先ほど、彼女の首から切り落とされたものだろう。
女将には悲しみなど微塵もなく、ただ「面倒な事故処理」への苛立ちだけが浮かんでいた。
客に愛を売り、色を売るこの世界で、男の甘い言葉を信じた末路。
「本気の恋」は、この館において死に至る猛毒でしかないのだ。
「……惨めね」
冷徹な声。
朝の光の中、ソフィアが布を被せられた遺体と、床の血だまりを見下ろしていた。
感情を一切排した瞳で、ソフィアはラナに命じる。
「ぼんやり立っていないで。床の木目に染み込む前に、絨毯ごとすぐ取り替えなさい。今夜の客に、何の匂いを嗅がせる気?」
「……は、はい。すぐに。」
冷酷すぎる言いつけ。
けれど、それがこの館で「頂点に立つ者」の思考だった。死者に浸る暇などない。ここは美しさと引き換えに金を搾り取る、血も涙もない戦場なのだ。
血染めの絨毯を巻き上げながら、ラナは考えていた。
──みんな、なんで恋なんてするんだろう。
男に人生を委ね、愛されたいと願った末路がこれなら、そんなものはドブにでも捨てたらいいのに。
ソフィア姉さんは、恋をしないと決めているんだろうか。
それともソフィア姉さんも誰かに恋をしていて、それでもこうして、揺らぎもなく凛と立っているんだろうか。
──私はまだ恋というものがわからない…。
憧れ、心酔、そして恐怖。
この地獄で、誰にも媚びず、己のルールで生き抜く絶対的王者。
ラナはただ、遠い太陽のようなソフィアの背中を見つめていた。
「何してんの。早く替えの絨毯を貰いに行きな」
ソフィアに背中を突かれ、ラナは「う」と唸って足を止めた。
「どうしたの? 」
「女将さん、機嫌悪いからなぁ。備品欲しいって言うと当たられそうで……」
「ええ? 女将さんにはこんな事慣れっこでしょうよ。顔色ひとつ変えてなかったじゃない」
ソフィアは不審そうに首をかしげる。だが、ラナはもっているのだ。この過酷な娼館で生き抜くための、ほんの小さな観察眼を。
「姉さん、顔じゃないんです。指です」
「指?」
「怒ってるときは、薬指が揺れるんですよ」
廊下の奥へと去っていく女将の後ろ姿を、二人で壁からそっと伺う。
「あらホントだ」
「昂るほど早く揺れるんです。1秒に四拍。あれはそうとう怒ってますよ」
「へえ、そうなの。じゃ、嬉しいときは?」
「そんなの見たことありません」
「ええ? じゃあ哀しいとき」
「そんな感情、あの人にあるわけありません」
「何よ酷いのね。じゃあ、楽しいも無し?」
「——小指です」
ソフィアを引き連れ、ラナはこっそりと女将の後をつけた。
娼館の勝手口近くで、手に持っていた血汚れのロープを乱暴に放り捨てると、女将はキョロキョロと辺りをうかがった。
——ニァアン。
物陰から痩せた子猫が姿を現し、ピンと尾を立てて女将の足に体ごと擦りつける。
残飯の乗った皿を持つ女将の手——その小指が、目にも留まらぬ高速で揺れていた。
『ぶっ』
女将がハッと振り返る。誰もいないのを確認すると、皿を置き、屈んで愛おしそうに子猫を眺め始めた。
「「昂ってるー!!」」
壁の影で、ラナとソフィアは声を殺して爆笑した。
人の死、血の匂い、惨劇の跡。そんな悲劇のあとでも、ラナたちはすぐに笑えてしまう。 だってラナたちは、この世界で汚泥に塗れながら生き抜く女なのだから。
◇
朝8時も過ぎた頃、泊まり客の見送りを終えると、やっと一息つく時間がやってくる。
午前10:00を過ぎれば雑用や稽古が始まる。
それまでのひとときの休憩時間なのだ。
綺麗な指で丁寧に足先に香油を塗り込んでいるソフィアの背後では、ミーナとルーナが、姉さんの美しい長い髪を丁寧にとかしつけている。
ハッカの香りがふわっと鼻をかすめた。 七月に入ったばかりのこの大陸では、日増しに日差しが強さを増し、これから苛烈な熱い夏を迎えるところだった。
ハッカのツンとした優しい刺激だけが、僅かな清涼感をもたらしてくれる。
ラナはソフィアの机を借りて「ある作業」をしていた。
「姉さん、秘密を教えます。私、実は転生者なんです」
「はいはい。何度も聞いたよ」
ソフィアはこちらを一切見ずに答える。完全に聞き流している声だ。
実際、ラナの頭の中には見たこともない「便利な世界」の断片が浮かぶことがあった。
聳え立つ高層ビル群、空を翔ける旅客機、手のひらに収まる通信端末、金銭を手渡さずに決済ができる経済システム。
ラナ自身が前世で誰であったか、どんな人生を送っていたかという記憶は一切ない。けれど、そこに存在した「技術」や「仕組み」の断片だけが、ラナの脳裏に鮮明な知識として刻み込まれていたのだ。
「……ついに完成したんです。この館にだけは、金輪際夏はおとずれません」
「ええ!?」
さっきまで関心の無い様子だった姉さんが目を丸くしてこちらへ向き直った。




