第3話 ハイエンド戦略
曲げていた指がキリキリと悲痛な音を立て、痛みに顔が歪む。
嘲笑う見習いたちの視線を浴びながら、ラナは黙って痛みに耐えるのだった。
そこへ──ギィと重厚な音を立ててホールの扉が開き、薄暗い廊下に一筋の光が差し込んだ。
ホールから現れたソフィアの醸し出す圧倒的なオーラが、その場の空気を一瞬で塗り替える。
「ラナ」
その鈴を転がすような甘い声をきっかけに、カーラは弾かれたように足を外して一歩後退した。
ソフィアはぐいとラナの手を引くと、ぬいぐるみでも抱えるようにラナを抱きしめた。
「……姉さん、もしかしてもうあの若い商人を帰しちゃったんですか?」
「だって酷く退屈な客だったんだもの。時間が空いたから、アンタに稽古でもつけてあげようね」
「えぇ……いやですよ。まだ配膳が残っていますし」
——ああ、あの若い商人も駄目だったか。今晩の閨研修もお預けだ。
もっとも、珍しいことではない。
コルチザンは『三会の礼』を経るまで肌を許さない。
3度通わせ、その間に財力も人柄も見極める。そして自分に相応しいと認めて初めて、『馴染み客』として迎えるのだ。
普通のコルチザンなら、そうして選んだ馴染み客を10人ほど抱えている。
けれどソフィアは違う。
彼女が相手にするのは――たった1人。
『ただ1人しか触れられない女』という圧倒的な希少価値を作り上げ、1人の超富豪から桁外れの花代を引き出している。
徹底した『ハイエンド戦略』をとっているのだ。
けれどソフィアも、最初から客を選べる立場だったわけではない。
18を過ぎて売られてきた彼女は、水揚げすら経ない、格付けなしの一般娼姫として毎夜客を取るところから始まった。
一度『誰にでも買える安い娼姫』という値札を貼られれば、そこから這い上がるのは至難の業だ。
――それをソフィアは覆した。
客を取るたびに花代を跳ね上げ、群がる男たちを己の手管ひとつで競わせ、ついにはコルチザンの称号を勝ち取ったのだ。
誰にでも買える一般娼姫から、
客を選ぶ最高位の娼姫へ。
そして今では、その客すら一人にまで絞り、この館の頂点に立っている。
そのソフィアの壮絶な成り上がりこそ、ラナがずっと追いかけてきた道だった。
ソフィアは一切の温度を感じさせない瞳で、廊下の奥のダイアナを見つめた。
ダイアナがゆっくりと振り向き、二人は静かに視線を交差させる。
「──ダイアナは、今日『も』お勤め? ご苦労様ね」
「……」
ダイアナは瞳に怒りの色を宿し、鋭くソフィアを睨みつけた。
痛いほどの静寂が廊下を支配する。
しばらくの沈黙の後──ダイアナは「行くよ」と低く言い捨てると、今にもソフィアに食ってかかりそうな妹分たちを従え、大ホールへと姿を消した。
ホールの扉が閉じるのを見届けるように、ソフィアは静かに佇んでいた。
その凛と立つ姿を、異常な熱をもって見つめるもう一つの視線。
(……姉さん。好きです姉さん。──あぁ、神は何故この女神をこんな下界に遣わされたのか。その美しさはもはや暴力、存在が至高、崇めたい、愛している、姉さん、踏んでください──!)
膨大すぎる思考の熱量だけを網膜に込め、ラナは一切の口を開かずに、ただ熱っぽくソフィアを見つめた。
「……寒気がするわ」
声を発していないのに、ソフィアは自身の白い腕をさすり、露骨に鳥肌を立ててラナを睨みつけた。
「伝わって来てるわよ、無駄に重い感情が! 脳内でろくでもないことを撒き散らすんじゃない!」
「えへへ」
「イヤ! 嬉しそうにしないで!」
嫌悪をむき出しにしながら、ラナの脳内で爆発させていた感情を、完璧な精度で読み取ってみせるソフィアだった。
◇
ある朝、事件は起きた。
吹き抜けから冷たい朝の光が差し込む頃、階段の踊り場が騒がしくなった。
薪を抱えて通りかかったラナが足を止めると、男たちが白い布を被せられた「何か」を担ぎ出していくところだった──。
布の隙間からダラリと垂れ下がった手には、見覚えのある銀の指輪。
ラナに縫い物を教えてくれた、中堅のコルチザンだった。
この館の女達はみな身分証がわりの銀の指輪を身につけている。
内側に名前や所属を示す刻印があるが、表の飾り彫刻で皆、一目で誰だかわかるのだ。
「……マリー姉さん……?」
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