第23話 めでたい頭
ソフィアの遺体は、街の外れを流れる冷たい川の小さな淀みで見つかった。
引き上げられたその手首には、赤い縄で男と固く結ばれていたことを示す『心中立て』の痛々しい傷痕が残されていたという。
少し離れた下流から上がったのは、衣装屋のジャンの遺体だった。
「……首尾が良ければ、2〜3日は時間を稼げただろうに」
サロンの裏口。館の人間たちが白布を取り囲む脇で、女将が低く呟いた。
「あの『お人好し』がヘマをしたんだ。駆け落ちしようってのに、仕事の引き継ぎ書なんて残してさ……すぐに家の者がこっちに使いを寄越したよ」
憎々しげに吐き捨てるその目は、どこか遠くを見つめていた。誰に向けてでもなく、ただ淡々と事実を言葉にしていく。
「脱出の直後に見つかり、追い詰められて川へ飛び込んだそうだ……」
ショックで言葉を失い、白布へと吸い寄せられるように歩み寄るラナを、館の男衆が力強い腕で制し、遠ざけた。
「下流で引き上げられたんだ。顔なんざひどいもんだ」
女将さんは冷たく、けれど静かに私を見据えた。
「お前には無理だよ、ラナ。この先思い出すソフィアの顔が、一生『これ』になるんだ。……覚悟はあるのかい」
「……っ」
「指を見な」
促されて小さく視線を落とすと、白布の隙間から覗く白い指に、ソフィア姉さんがいつも大切にしていた銀の指輪がはめられていた。
間違いなく、姉さんだった。
視界が歪んだ。
「ここで泣いたりしたら承知しないよ」
女将の冷酷な声が、静寂を切り裂いた。
「マリーが死んだ時、お前はどうした? 一筋の涙も流さず、絨毯を巻き上げたろう」
「ふ……っ」
堪えきれず、一筋の涙が頬をつうっと伝った。
「…ラナを地下牢へ連れてお行き」
「ですが……」と戸惑う護衛たちを、女将さんは毅然とした態度で制した。
「公爵が『指一本触れるな』と言ったのを気にしてるんなら、お門違いだよ。ここでは公爵だろうとルールに従ってもらう。公爵とラナは、あくまで『客』と『商品』だ。文句があるなら、正式に身請けすることだね」
たじろぐ男衆の様子を見て、女将はほんの少しだけ声を緩めた。
「……話はつける。連れてお行き」
◇
地下牢の片隅で、ラナはぼんやりと数日前の記憶を辿っていた。
ジャンが挨拶に来た時のことだ。
太い取引先に婿入りが決まり、めでたいことのはずなのに、どこか哀しげに語っていた。
ソフィアがまだ若く荒々しかった頃
──ジャンと噂になったことがあった。
今では誰もそんな昔話を口にしない。
ラナは、彼の自嘲気味な笑顔を見たとき、胸の奥で警鐘が鳴るのを感じていた。
あの時、直感的に抱いた妙な胸騒ぎ。
そして昨日、二人は駆け落ちをして、心中した。
直前まで一緒に寝ていたのに、姉さんは何も言ってくれなかった。
そんな仲なんだってこと一言も。
姉さんにとって、私は心の内を明かす相手ではなかった。
夢で見た姉さんの姿。
振り乱した髪、血走った目、鬼のように歪んだ美しい顔。
『クソガキ』
『何故私の場所を奪うの』
『何の苦労も知らないで』
激しい嫉妬と憎悪の毒を撒き散らしながら、私の首を折らんばかりに力を込めていた。
あれは本当に夢だった?
『そんなバカバカしい茶番で、私はトップを奪われたってわけ?』
脳裏に焼きついている、ソフィア姉さんに完全に突き放されたような、あの冷たい目。
格子窓から見える空には、月の姿は見えなかった。
◇
「……反省したかい。まだメソメソしてるんじゃないだろうね」
静まり返った牢の柵のむこうで、女将がラナを見下ろした。
「……ありがとうございます。1人になれるようにしてくださったんですね。……泣けるように」
「……フン、めでたい頭だね」
鼻で笑う女将に、ラナはポツリと呟いた。
「でも……出てこないんです。涙が」
「さっきから、一生懸命考えているのに。
どうして、なんでって。」
「……頭が真っ白なんです。頭の中にも、心の中にも、何一つ浮かんできません。何も……分からないんです」
思考が容量オーバーを起こしたのではない。完全に『停止』しているのだ。
女将はその状態がいかに危険なのかをよく知っていた。
この感覚を脱しないまま生き延びる人生がどんなに惨めで壊れたものになるか、誰より理解しているのは他ならぬ女将自身だった。
「……お前、自分の親がどんな奴か気にしたことはあるのかい?」
唐突な問い。
「思いを馳せるようなことは、何も。色々な親の話を聞きましたから」
「……今日みたいに、月のでない真っ暗な晩だったね」
女将は遠い目をした。
「表にうち捨てられててさ。鳴き声がするもんだから赤子か猫かと見に行ったら、カゴの中に両方いたんだよ。お前はぐっすり眠ってて、子猫が泣いてたってわけさ」
「……女将さん、それ何度も聞いてます」
「あれ、言ったかね」
「はい。多分、女将さんには私との共通の話題ってそれしかないんです」
「そうかい」
「そうです」
「……あたしにくだを巻くなんて、いい度胸じゃないか」
「……すいません」
はぁー……と溜息をつき、女将はそばの椅子に腰掛け、キセルに火をつけた。紫煙がゆらりと昇る。
「そうだねぇ……あの子はどうだったかね」
「落ちぶれた貴族の娘が借金のかたに売られてくるなんざ、ありふれすぎた話だからね」
「もう18歳を過ぎて売られてきたもんだから、水揚げもなくいきなり客をとらせて……『なんでこんな安く買われなきゃならないんだ』って、えらい剣幕だったっけね」
「……」
「お前にもずいぶん当たっただろう。あんなことまで……」
「どの姉さんも同じようなものでしたよ。」
「……いいんだ」
女将さんは煙を吐き出し、静かに続けた。
「あの衣装屋は、この世界じゃお目にかかれないような、本当に気のいい奴だったからね。……アイツを憎からず思っていたのは、ソフィアだけじゃなかったよ」
「……そうだったんですか」
「ある日、あいつが髪飾りを送ってね。贅を尽くした、それは立派で上品な品だった」
「……親父さんが心配して私を訪ねてきてね。『何か月もかけて、材料に自分の蓄えを全部使って作ってた。てっきり富豪の注文でも受けたと思ってたら、ソフィアにやったと聞いて驚いて飛んできた』んだとよ」
女将さんは寂しげに目を細めた。
「『二人とも弁えてるから、何も起きやしない』って言って追い返したよ。実際、本当に何も起きやしなかったからね」
「髪飾りだってどこへやっちまったのか……すっかり終わったものだと思ってたんだけどねぇ」
フッ、と自嘲気味に笑う。
「出入りにやってくるほんの一瞬、顔が見れればいいなんて……そんな初心な恋を、何年も温め続けていたのかね……」
「……それならあのバカ息子は、婿入りなんて承知しなきゃよかったんだ。まったく、バカな男だよ」
ラナの知らない話ばかりだった。
しかし、その言葉のどれもが、乾いた砂に水を含ませるように、ラナの空洞になった心の向こうへすぅっと消えていった。
「……ソフィア姉さんは、憐れな女です」
感情の籠もらない声が自分の口から漏れる。
「恋なんかで命を……この世界を捨てるなんて」
女将はキセルをトントンと灰皿に叩きつけると、ラナをジロリと見据えた。
「……そう言えば、お前に店主会から正式な称号がついたよ。今日からお前は『グラン・コルチザン』だ」
「……グラン・コルチザン?」
「ああ。コルチザンのその上、最上級の称号さ。ソフィアもたどり着かなかった、娼姫の頂点だよ。……お前が欲しがっていたトップの座だ」
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11月7日の三十日月の出る頃に、本作は完結を迎えます!ぜひ最後までお付き合いください。




