第21話 9月9日 有明月
9月4日 下弦の月
いつものように、飲み過ぎてしまった。
酒に溺れるのは、何か気に食わないことがあるからではない。
ただただ美味しい。それだけなのだ。
このサロンは、領地内の「花街」と呼ばれる歓楽街にある。 十数軒ある娼館の中でも、群を抜いた最高峰の店だ。
かつては王族も足を運んだほどの客層。 調度品から食事まで、あらゆる細部に贅が尽くされている。
この店で働いたキャリアは、どこにでも通用するステータスになる。
全国各地から、腕に覚えのある者たちが集まってくるのだ。
特に酒のレベルは高く、国内随一と謳われる代物だった。
飲み過ぎた体を回復させるのは簡単だ。
物理的に排出してしまえばいいのだ。
(よし、これであと10杯いける)
いつものように手際よく『排出』を済ませ、長い髪をまとめていた簪を抜きながら化粧室から出た、その時だった。
「……あ」
補修のために回収したのだろう。
何着ものドレスを抱えて、ジャンがにっこりと立っていた。
「やあ、良かった。今夜会えるような気がしたんです」
いつもは遠巻きにして、目が合えばほんの少し微笑んで会釈するだけ――。
長年そんな距離感だった彼が、わざわざ足を止めて声をかけてくるなんて珍しい。
私は気分転換を兼ね、彼が荷馬車へドレスを積み込むのに付き合うことにした。
辺りに虫の音が響いていた。
秋の夜風が火照った頬を心地よく撫でる。
何を話すでもなく、ジャンは丁寧にドレスを積み終えた。
そのまま手を止めると、荷馬車の中をじっと眺めて黙り込む。
私はキセルからふうっと紫煙を吐き出した。
ジャンは意を決したように、穏やかな笑顔をこちらに向けて言った。
「ソフィアさん、今夜この荷馬車に乗りませんか。今なら誰にも見つかりません。…私はあなたと駆け落ちしたい」
「――……っ!」
青天の霹靂だった。
まさか、この貧乏で何の権力もない地味な若者が。
このヴェルヴェット館でトップの一角を張るコルチザンの私に、駆け落ちを持ち掛けるだなんて。
それもこんな突然に。
――それほどに、私を思ってくれていただなんて。
「……どうして、今なの?」
「各国の布地を扱う大商家さんから、私を婿にというお話をいただいたんです。私の何が良いのか、お嬢様がお見初めくださったそうで」
「……」
「私は生涯独身で、この店で衣装屋をやっていくと言ったんですが……」
「ウチの店の借金が膨らんでいましてね。借金のカタにサロンに出していた妹も、不器用なもんで、一生働いても返せない額を逆に背負ってしまった始末で」
言葉を区切り、彼は寂しげに目を伏せる。
「でも、それも全部返してくださるというんです。……こんなことを言うのは、皆さんに大変失礼なのは分かっているんですが」
左半分に輝く下弦の月の下で、彼は切なく笑った。
「想う人がいるのに、金で買われるってことは……こんなに辛いものなんですねぇ」
「……っ!」
「私は貴方と生きたい。生涯添い遂げたい。……だから、この荷馬車に乗ってください」
一家の命運をすべてその肩に背負う縁談。
この心優しい青年が、それらを投げ打って私に駆け落ちを乞うなんて、どれほどの覚悟を決めたことだろう。
(もし……あの公爵のようにこの人に財力があったなら。苦労なく、私を買い取れただろうに)
「……あなたは優しい人よ」
喉の奥を押し潰しながら、声を絞り出す。
「家族を捨てて、自分だけ幸せになれるような人間じゃないでしょう」
「私は、覚悟を既に決めています」
ジャンはまっすぐ私を見つめ返した。
「ソフィアさん。あなたは、私をどう思っていますか?」
その目は、彼が言った通りに強い覚悟が定まっていた。
家族を見殺しにするような業を背負ってでも、私と添いたいと言ってくれる。
それが、震えるほど嬉しかった。
――だからこそ「はい」とは言えなかった。
この花街は娼姫と駆け落ちをして、無事に生き延びられるような生ぬるい世界ではない。
嬉しい。
嬉しいからこそ、あなたに生きていてほしい。
「……私はあなたのことなんて、何とも思っていないわよ」
嘘をついた。
人生で、一番下手くそな嘘を。
◇
9月6日
数日後。
衣装屋の青年の婿入りが決まった。と店内に噂が広がった。
ジャンは若い手伝いの男衆を伴って、私の部屋を訪ねてきた。
「今後の出入りはこの者が担当します」
ジャンは形式的な挨拶を残し、自嘲気味な笑顔を浮かべて去っていった。
男に身を委ねなくても稼げるこの立場。
これほど有り難く、そして恨めしく思えた日はなかった。
◇
9月7日 白露
ジェファーソンがやってきた。
私をトップに押し上げてくれたのは、他ならぬジェファーソンだ。
盛大にチップを撒き、私を高く買い上げてくれる。
彼が一度来るだけで、少なくとも半年は他の男を袖にしていられる。
まさに、私の『命綱』なのだ。
居室に入り、落ち着いた照明の室内に廊下の光がまだ漏れ込むうちに、初老の品のいいその男性が私の手を優しく取る。
私は極上の笑顔で握り返すと──静かに部屋の扉を閉めた。
◇
ジェファーソンが深い眠りに着いたのを確認すると、私は弾かれたように部屋を飛び出した。
靴も履かず、裸足のまま夜の敷地を駆け抜ける。向かうのは、敷地の外れを流れる川だ。
川向こうは外界だ。
巡回中の衛兵がチラリとこちらを一瞥するが、止める気配もなくそのまま通り過ぎていく。
この川は途中から急に激流になる。外界とを隔てる自然の柵であると同時に──人生に絶望した娼姫たちの『最期の救済の場所』でもあった。
「……っ、あ……ッ!!」
バシャリと冷たい川の流れに身を晒し、夜着の上から自分の身体を何度も、何度も激しく擦った。
刺すような冷水が肌を叩く。喉が潰れそうになるまで、悲鳴にも似た喚き声を夜空へ上げた。
世の中を呪う、思いつく限りの罵詈雑言を叫び散らす。
それらすべての惨めな声は、激しい川の音が綺麗に消し去ってくれた。
……どれくらいそうしていたろだろう。
身体の芯まで冷え切った頃、きっと酒が抜けたのだろう。
ふいに、胸の中の淀みがスーッと引いた。
びしょ濡れのドレスが肌に重たくへばりつく。
その肌の色が、すぐ脇にそびえる建物の窓から漏れ出る温かな光に照らされた。
(……ここは、黄金宮のすぐそばだったわね)
見上げると、二階の窓の奥にラナの影が見えた。
(……相変わらず、こんな遅くまで起きて。きっとまた『前世』とやらに取り憑かれているのね……)
ふっと、愛おしさと懐かしさが胸に込み上げる。
すると、影の奥からもうひとつの背の高い人影がぬっと加わった。
その人影は、優しく繊細な手つきで、ラナの華奢な肩にそっとショールを掛けたようだった。
私はこれでいい。
こうして洗い流し、また嘘の笑顔でやり過ごしていける。
(だけど──)
『想うひとがいるのに金で買われるっていうのはこんなに辛いもんなんですね』
あの人がこの苦しみを味わうなんて耐えられない。
ノアに大切にされ、幸せそうに微笑むラナの横顔を遠くから見つめながら、頬を、冷たい川の水とは違う一筋の水が伝っていった。
◇
9月9日 有明月
とある晩、私はラナの離れを訪ねた。
ラナはまるで本物の貴族のように大切に扱われ、ラナとノアの間には長年連れ添った夫婦のような、安心と信頼に包まれた穏やかな空気が流れていた。
私はツカツカとノアの前に歩み寄ると、手に持ったボトルの酒をグラスに注ぎ、一気にあおった。
私はノアに詰め寄った。
「……何をまどろっこしいことをしているのかしら? ここは腐っても娼館なのよ!?」




