第20話 純真無垢
9月1日 二百十日
その日、私は昔のことを思い出していた。
かつて私――ソフィアは、誰もが羨む貴族の令嬢だった。
だが、家は落ちぶれ、借金のカタにこの泥の底――娼館へと売り飛ばされた。
待っていたのは塗炭の苦しみだった。
自分の尊厳が日に日に削られていく恐怖に、私は荒れ狂った。
そんな絶望の渦中で、私は一人の少女を心底から憎んだ。 名前はラナ。
娼館で生まれ落ち、この世界しか知らず、外の広大な世界を知らない幼子だ。
この小さな狭い場所しか知らないラナのことが、私は心底憎かった。
外の輝きを身を以て知っている私にとって、この娼館は社会の底溜まりであり、光の差さない「影」そのものだ。
けれど、外を知らないこの子にとっては違う。この汚泥に満ちた娼館の中にこそ、ラナだけの「光と影」が存在していた。
豪華に着飾る娼婦たち。きらびやかな調度品。財力を誇る男たちに、テーブルに並ぶ豪勢な食事。
――それがラナにとっての『光』。
厳格な仕置き。薄汚い裏方の仕事と、女の足の引っ張り合い、そして恋に狂って命を落とす哀れな女たち。
――それがラナにとっての『影』。
過酷な仕置きを受けても、それがこの世界の「当たり前」だからめげもしない。
先輩の娼姫が成り上がれば、まるで本物の女神でも崇めるかのように目を輝かせる。
誰もが身も心もドブに浸かり、腐り果てているこの地獄で。
この子だけが――外界の光を知らないがゆえに、純真無垢なままでいる。
それが、たまらなく私を惨めにさせ、反吐が出るほど妬ましかった。
早く水揚げを迎えたらいい。
早く見受けされて、外から見た己を思い知ればいい。
早く恋を知って、この商売の一番の地獄を知ったらいい。
いじめて、いじめて、いじめ抜いてやった。
けれど他の女たちも日常的に当たり散らしているものだから、大して効果はなかった。
毎日生傷が絶えないというのに、ラナはへこたれない。
……異変が起きたのは、いつからだっただろうか。
ラナは「転生したの、前世がどうの」と理解不能なことを口にしはじめ、「傷パワーなんとか」などと言い出したのだ。
怪我をしないことよりも、怪我を「いかに早く治すか」に熱を燃やし始めたその姿を見て、私は無理やり自分を納得させた。
――ああ、この子にとってもやはりこの世界は過酷で、赤子の頃からここに身を置く中で、この子なりの防衛本能が哀しく働いてしまったのだと。
私は元々相手の心を読む洞察力があった。
加えて実家では、感情の化かし合いで成り立つ貴族社会を生き抜くための英才教育を受けてきた。
ラナの思考回路は化け物のようだったから、ほんとうに大嫌いだった。
女将は全く感情が読めなかったから、これまでもこれからも一生超えられない壁に思えた。
普通、人間は思っていることの半分ちょっとくらいを口にするものだ。
しかし――出入りの衣装業者の、あの地味な少年ジャンは違った。
彼は心で思ったことが、そのまま全て口に出てしまうタイプだった。
ポジティブな言葉に至っては、反射的に心より多めに口にしているらしい。
『ソフィアさん綺麗だ』
「ソフィアさん、綺麗だ! とても綺麗だ!」
この地獄のような世界に来て、初めて私に差し込んだ陽光。 ほんのりと冷え切った心を温める、優しい光だった。
この感情を育てた先に、どんな苦しみが待っているのかは目に見えている。
けれど、これまでの塗炭の苦しみを思えば、そんな恋心くらい容易く御し切れる自信があった。
外の世界を何も知らないまま、己の内だけにある虚構の世界で生きるラナとは違う。
私は現実の社会で苦しみを克服し、その中に見え隠れするほんの一瞬の光を掴むことに死力を尽くしたい。
……本気でそう思ったのだ。
だが、失望は早々にやってきた。
あの少年は、良くも悪くも本当に嘘がなく、素直で真っ直ぐすぎる人間だったのだ。
『やあ、今日も綺麗だな』
「今日も、凄くお綺麗ですね!」
……彼は、館のあちこちの女に同じ言葉を振りまいていたのだ。
(ラナを目にした時に何故か『面白いねえ』と洩らしていたのには、吹き出してしまったけれど。)
真っ黒な暗い澱みが、自分の中に勢いよく広がるのが分かった。
この苦しみを、自分一人だけで消化するなんて到底無理だ。
誰か、誰か――。
営業時間の館内では、「幼子から決して目を離してはならない」という絶対の不可侵ルールが存在する。
私はラナが厨房で一人きりになるよう、裏で手を回した。
そこは、評判の悪い客が女中を物色してよく覗き込んでいる場所だ。
ほんの一瞬の、魔が差しただけの行いだった。 どれほど恐ろしいことをしてしまったのか、直後に気がついて血の気が引いた。
焦って駆けつけた頃には――もう、事が起きてしまっていた。
聞いたこともない、幼子とは思えない悲痛な悲鳴が館内に響き渡る。
青ざめながら現場に飛び込んだ私が目にしたのは―― 返り討ちに遭い、床でのたうち回っている男の無惨な姿だった。
まさか幼子が大の男一人を撃退してのけるとは――。
娼館で生まれ落ちた、最底辺の女としての逞しさと誇り高さ。
その凄まじい生気に、頭を強く殴られたかのような衝撃が走った。
この子も私も、今、この地獄のような世界で必死に生き抜こうとしている。
ただそれだけなのだと、ようやく悟った。
「……ハァ。度胸があるのは良いことだけど、少しは女らしく助けを呼びなさい、このバカ毛」
口から出たのは呆れ果てた小言だったけれど、私は心の中でラナに深く懺悔した。
――一生かかっても返せない大きな借りを、この小さな背中に作ってしまったのだと痛感しながら。
◇
それから幾月も経った、ある日のこと。
ジャンが、極小の白いシードパールを緻密に編み込んで作られた、美しい髪飾りを私に贈ってくれた。
アーチの土台にルーフ調の装飾が施され、中央には大真珠をあしらった華やかな大輪の花。その左右からは葉や小花を宿す繊細な枝が広がっていた。
「こんなの、館中の女に配って回ったら破産してしまうわよ?」
自嘲気味に笑う私に彼は真剣な目で言った。
「これは、貴方だけに贈る特別なものです」
「……ずいぶん調子がいいのね。あなたがみんなに『綺麗だ』って言って回っているのは、誰だって知っていることよ」
「えぇ? あ、あれは衣装屋のさがみたいなものでして……美しい衣装を見ると、口に出さずにはいられないと言いますか――」
言葉を失った。
……なんだ。 私は、ただの初々しい小娘のように、勝手な勘違いと嫉妬をこじらせていただけだったのだ。
「……そうなの。――ありがとう」
既に心の中で封をしてしまった恋。
今さら何かドラマが起きるわけではないけれど、受け取った髪飾りだけは、これから先もずっと大切にしようと心に決めた。




