第19話 作物が育たない
「どっ、どうして!? えっ、なんでここに……!?」
ガバッとベッドから飛び起きる。
混乱で頭の中がパニックを起こし、思考の回路がショートしそうになる。
「…愛しい小鳥が籠から逃げてはいまいか、気が気でなくてな。急ぎで片付けてきた」
ノアは天蓋の柱に片腕を掛け、逃げ場を塞ぐようにして、ぬっと顔を近づけてきた。
一瞬、いつものからかいだと思って身構えた。
──だけど。
間近で見つめる彼の額には、うっすらと汗が滲んでいる。
よく見れば、肩が微かに上下していて、ほんの少し息が上がっているのが分かった。
部屋に立ち込める鉄の匂い。
遠征先から馬を飛ばしてそのまま戻ってきたことが一目で分かる、血染めの軍服。
ラナに触れまいと添えられた彼の手の甲には、痛々しく包帯が巻きつけられていた。
1か月かかるはずの討伐を、たった3日で終わらせて。
泥と血に濡れたまま、真っ直ぐ私のもとへ帰ってきたのだ。この人が。
「……っ」
考えるより先に、身体が動いていた。
気づいたときには、ラナは夢中でノアの首元に抱きついていた。
ノアが息を飲み、目を大きく見開いた気配がした。
──ノア様。
ノア様は私を想ってくれていますか?
私が負けを認めたら、どうしますか?
「もし…もしも!……もし私が…」
ラナはノアの胸元を見ながら、この想いを口にすべきか必死に自分の心を探った。
そのとき、ノアの軍服の装飾である金糸のロープが目に入った。
──ゾッ。
──その瞬間、ラナの背に冷たい戦慄が走る。
脳裏によぎったのは、白い布からこぼれおちた青白いマリーの腕だった。
これまでと違う激しい動悸がする。
『情けない。客の駆け落ち話なんて真に受けるなんて』
ロープを握って苦々しく呟いた、女将の声が脳内に響く。
「な、なんでもないです。違います!これはただ────こうしてお出迎えしたいだけなんです」
静寂が、部屋を包み込む。
自身の心臓の音が、うるさいくらいに耳元で鳴り響く。
ややあって──。
「……そうだな」
ノアは小さく呟くと、壊れ物を扱うように、ゆっくりとラナの身体を抱き返した。
ノアの体温がラナの全身を包み込む。
「……ただいま、ラナ」
耳元で聞こえた、少し掠れた低い声。
「……おかえりなさい、ノア様」
ラナはノアの胸に顔をうずめ、ぽつりと返した。
──このとき。
抱きしめられたラナの後ろで、ノアがラナの金の髪をひと掬いし、その瞳に底知れない暗い影を落としていたことを。
ラナは、知る由もなかった──。
その夜は、それ以上何も言葉にできなかった。
◇
翌朝。
テーブルの上に広げられた新聞の一面には恐ろしい見出しが踊っていた。
『冷徹公爵ノア・ヴァルハイト、新兵器で怒涛の電撃討伐』
『大地は焦土と化し、魔物の群れは全滅』
『近隣住民の悲鳴「向こう50年は作物が育たない」』
『同行した部下の証言「公爵閣下の高笑いが戦場に響き渡っていた」』
(…………)
1か月かかる討伐をわずか3日で終わらせた顛末が、この数行にすべて詰まっていた。
「……公爵様。日本刀の首尾は、いかがでしたかしら……」
向かいで優雅に朝食を口へ運ぶ男へ、引きつった笑顔で尋ねてみる。
ノアは、パッと顔を輝かせた。
「ああ、あれは見事な刀だな!!」
「魔物がまるでゴ───ピー───だったぞ!」
ラナの脳内で反射的に「ピー音」が自主規制音として再生された。
「……そ、それは……大変ようございましたこと」
(……いけまけん。これは絶対にいけません)
ラナは優雅に紅茶をすすりながら、心の中で固く固く誓った。
前世の記憶にある『火器類』の知識は、絶対に墓まで持っていこう、と───。
◇
綺麗な三十日月の晩、本館は夜遅くまで賑やかだった。
ソフィアの上得意客であるジェファーソンがやってきて、豪華な酒宴が催されていたのだ。
遠方での駐在任務が終わるや否や、帰還早々にソフィアの元へ駆けつける手筈を整えたのだという。
翌朝、本館で朝食の準備をしていた双子たちを、ラナは「ちょいちょい」と手招きで呼び寄せた。
娼館において、妹分たちは夜の営みにも付き添う。
「ソフィア姉さん、どうだった……!?」
生唾を飲み込んで尋ねると、双子は目を輝かせて頬を赤らめた。
「あんなに美しいソフィアお姉様は、見たことがありません!」
「これまでにないほど切なげなお声で……あんな声でお啼きになるから、私、もうドキドキしてしまって」
「お客様もそれはそれは、壊れものを扱うかのように大切に、大切になさって……お二人が優しく儚げで、私達、訳もなく泣いてしまいました」
──な、なんだって……!?
一期一会、奇跡のような夜。
「そんな……神回を逃してしまった……」
脳内で悔し涙の滝を流しながら立ち尽くすラナを、双子は「いつものこと」とばかりにさっさと放っていってしまった。
◇
ラナはノアに双子から聞いた話をした。
「少しお年は召しているが、領民からの評判も良く、大層な人格者だ」
奥方を早くに亡くし、早々に家督を息子へ譲って今は一人身を謳歌しているらしい。
ソフィアに熱を上げていることは貴族の間でも有名で、その一途な娼館通いを悪く言う者などいないのだそうだ。
(素敵なお二人……)
ふたりの深い絆に思いを馳せていると、ゆっくりと、大きな手のひらがラナの顔に近づいてきた。
すらりと伸びた無駄のない美しい形の指。
正面から首筋を掠め、うなじの奥へとそっと差し込まれる。
ラナの黄金の髪を手前にひとすくいすると、薄く開いた唇がそっと咥えるように添えられた。
——髪を薬指にかけたまま、長くて冷たい指先がラナの顎先を包み込む。
そして、親指が下唇の中央にほんのわずか触れ、その爪が上唇をなぞった。
「……お前は他の男の話はしない方がいい」
耳元で、甘く低い声が落ちる。
「どこかで命がひとつ散ってしまうからな」
狂気とも言える深く重い執着を孕んだ瞳が、額に零れた濃紺の前髪の隙間から、逃がさぬようにラナを射抜いていた。
(——それやめてーー!!)
頭の先まで沸騰したかのように、熱がラナの全身を駆け巡った。
「……ところでその……寝所に幼子が侍るというのは、本当なのか?」
「ええ? そうですよ。手管を覚えるための見習い期間ですから。普通でしょう?」
「……いや、普通ではないと思うが。私はその……遠慮したい」
青ざめた顔で、ノアは心底嫌そうに引きつっていた。
「そうですか? じゃあ、旦那さんに相談しておきますね」
◇
後日のこと——。
ノアが離れを出て娼館を後にしようとした際、本館から出て来た他の客と鉢合わせた。
その客は、女と付き添いの幼子ふたりを伴い、つやつやとした満足げな顔で出てきたところだった。
ノアはその男の顔を、真剣な眼差しで見つめた。
(幼子の視線を感じながら、平然と事に及ぶとは……私にはとても真似のできない芸当だ……)
ノアは心からの敬意と畏怖を込め、その見知らぬ男の肩を無言で『ポン』と叩いた。
「……ッ!?」
そのまま颯爽と店を出ていくノア。
大陸最高の権力者にして『軍神』と呼ばれる男からの、鬼気迫る謎の接触。
叩かれた客はその場に膝からへたり込んでしまったのだった。
◇
甘く微笑んで一階へと戻っていったノア。
彼が先程まで腰掛けていたソファの座面が、少しへこんでいるのをぼんやりと眺める。
(……ぬくぬくとした顔)
胸の奥に棘のように刺さったカーラの言葉。
ベッドに横たわり、静かに目を閉じる。
上質な寝具は優しくラナを包み込み、ここが絶対的な安心感に守られた場所なのだと告げていた。
『水揚げを迎える娘ってのは、大なり小なり傷を負うもんだ。酷なもんなんだよ、水揚げってのは』
『アンタに初夜を迎えた女の慰め方がわかるの?』
男に手を出させず、焦らして大金を落とさせるのがコルチザンの腕の見せ所だ。
けれど私の場合は違う。ただ手を出してもらえていないだけなのだ。
『まだいたの?』
女中の悪気のない声が蘇る。
——公爵のアプローチはお芝居なんだと、外には彼の本当の世界があるのだと説明したら、みんな納得してくれるだろうか。
……ううん、だとしても。
日々身を削って生きる女たちにとって、泥沼の戦場に一人だけバスタブを持ち込んで、ぬるま湯に浸かってみせるような私の存在は、醜悪に見えるままだろう。
『そんなバカバカしい茶番で、私はトップを奪われたってわけ?』
一瞬、ソフィアの瞳に浮かんだ暗い光。
完全に突き放されたようなあの冷たい目。
何一つ「コルチザン」と呼べることをしないくせに、姉さんから奪い取ったコルチザンの頂の座。
『ガラクタだけじゃ済まなくなるかもよ』
胸の中で、カーラの冷酷な警告だけがいつまでも響いていた。
◇
ある朝、それは起きた。
ドンドンドンドン!!
「っ!?」
息を激しく切らせ、顔面を蒼白にした双子が部屋へ駆け込んできた。
ふたりは掠れた声を振り絞り、絶望に満ちた目で私を見つめる。
「ソフィア姉様が……」
「……え?」
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