第16話 全部叶った
城下町の一角に位置する花街。
午後6時になると花街に一斉に灯りが入る。
中央街と花街の境に塀などはなく、植栽や照明、建物の佇まいが「ここから先は異世界である」ことをほのかに告げていた。
その花街の中央に構えるのが、この国最高峰の娼館である『ヴェルヴェット館』。
それを取り囲むように、数十の美しい洋館が整然と軒を連ねている。
その美しい景観は市民にも愛されており、街の観光名所として散策する人々も多い。
——しかし、それも街並みを楽しめる範囲までだ。
館への出入りは厳重に管理されている。
入るには通行証が必要であり、外へ出られるのは「客」だけ。
身請けされない限り、コルチザンが館の敷地を出ることは叶わないのだ。
そんな切なさを余所に、あちこちから優雅な音楽の調べや、贅沢なご馳走の匂いが漂い始める。
花街が、目を覚ました。
ヴェルヴェット館では、大小の『夜会』が始まった。
コルチザンと二人きりの食事会から、アプレンティスや付き人全員を集めた何十人規模のもの。
さらには、複数の客が集う大ホールでの共同夜会まで様々だ。
夜会を終えると、コルチザンの馴染み客は彼女達の部屋へ移り、夜を共に過ごすのだ。
◇
黄金宮の脇に流れる川面を、向岸に並ぶガス灯の暖かなオレンジ色の光が、等間隔に照らしている。
夜10時を少し回った頃、二階の部屋の二人掛けソファで、ノア公爵とラナは並んで腰掛けていた。
ノアが本館のホールで過ごすことは無い。
黄金宮のバンケットでラナと食事をし、二階のラナの部屋でしばらく寛ぐと、程なく一階の客室へと戻っていくのだ。
「——つまり、鏡で見るのとまったく同じ姿をそのまま写し取れる機械で……」
ラナが前世の知識で作った『カメラ』の仕組みについて、一人で熱っぽく盛り上がっていた、その時。
ふとノアが無言でラナをじっと見つめた。
彼の長く美しい右腕がしなやかにラナにまわされ、ラナの頭を優しく抱え込むと、そのまま黄金の髪に愛おしそうに顔を埋めた。
「……えっ?」
抵抗する隙もなく、グイッと引き倒される身体。
気づいたときには——ラナは彼の膝の上に倒れ込み、強引に膝枕をされていた。
(ちょ……っ!? パニック、パニックです)
ラナの心臓が鳴り響く。
ノアは左肘をソファの肘掛けにつき、首を緩やかに傾け、妖艶で甘やかな笑みを浮かべてラナを見下ろす。
「……続けろ」
低くて心地よい声。
それと同時に、ノアの右手の指先が、ラナの耳たぶを優しく弄び始めた。
(無理無理無理!! 頭真っ白で、カメラの話どころじゃない!!!)
おそらく、完全にオーバーヒートを起こしたに違いない。
飛んでいた意識がゆっくりと戻ると、バルコニーから柔らかな朝日が差し込んでいた。
(——っ!?)
え? 私、あのまま寝ちゃったの……!?
昨日のあれと同じ椅子、同じ位置、そして同じ体温。
ま、まさか……ノア様も、あの姿勢のまま一晩中ずっと……!?
恐る恐る顔を持ち上げると——。
朝日を受けて神々しいまでに美しい顔立ちが、そこにあった。
憂いを帯びた伏目がちな瞳を、左手に持った本へと落としている。
パサリ、と親指で器用にページを捲ると、ラナの動いた気配に気づいたノアがこちらへ顔を向けた。
世界で一番贅沢で、極上に優しい笑顔がふわっと花開く。
「……目が覚めたか」
「も、申し訳ありません……っ!」
パニックで跳ね起きようとするラナを、ノアは優しく制した。
「いや。今夜から遠征にでる。その前にお前の可愛らしい寝顔を独占できて良かった。」
「わ、私ったら粗相を……! い、今何時でしょうか!? お時間は大丈夫ですか!?」
「ああ。もう出る」
——なんと。
ノアは時間ギリギリまで、ラナを膝枕で寝かせてくれていたのだ。
そのままラナの体をふわりと抱き上げると、柔らかいベッドの上へとそっと降ろした。
「見送りはいい。このまま休め」
そう言い残すと、ノアは颯爽と部屋を後にした。
◇
……甘すぎない? ねえ、さすがに甘すぎませんか、ノア様!?
遠征前なのに、徹夜して本を読んでいたの?
休まなきゃいけないのはご自身の方でしょ!?
ベッドの上でポカンとしながら、ラナはある重大な事実に気づいてしまった。
水揚げ前に、ラナが心から切望していたもの。
——カーラをギャフンと言わせること。
——フカフカのお布団で眠ること。
——毎日美味しいご馳走を食べること。
——朝寝坊が許されること。
(……これ、全部叶ってない……!?)
もしかして私、今めちゃくちゃ最高の環境にいるのでは……!?
も……もし私が「身請け」されたら、この天国みたいな生活が永久保証されるってことかしら……?
ち、ちょっと待って……私の今後のライフプラン、真剣に見直してみようかな……。
ノアの膝のぬくもりが急に肌に蘇ってきて、愛おしさと名残惜しさが胸いっぱいにこみ上げてくる。
門へと向かうノアの姿をどうしても一目見たなり、ラナはバルコニーへと駆け出した。
◇
ずいぶん遠くまで離れてしまったけれど。
今すぐ大声で呼び止めたい衝動に駆られる。
もしノアが振り返って、あの眩しい笑顔を見せてくれたら——。
そのままの勢いで何かを叫んでしまいそうだった。
ふつふつと湧き上がる甘い感情を必死に抑え込みながら、でも、この勢いに任せてしまうのも悪くないかもしれない……。
胸が甘く締めつけられる葛藤に身を委ねて バルコニーから身を乗り出した時。
庭園を歩くソフィアの姿がラナの視界に入った。
あれだけ離れていれば、きっとお互いに気づかず行き違いそうな距離。
なのに——。
ノアがふっと足を止めた。
ソフィアの方を向き、まだ気づいていない彼女の元へと自ら歩み寄っていく。
そして、ソフィアの目の前まで来ると——ノアは優雅に頭を下げ、彼女の手を取って、その手の甲にそっと唇を落としたのだ。
(……——え?)
——どうして?
どうしてノア様が……ソフィア姉さんと——?
息が止まる。
二人はしばらくの間、何かを話していた。
そしてノアは門を出て、用意された馬車へと乗り込み、去っていった。
取り残されたラナは、冷たくなったバルコニーの風の中で立ち尽くしていた。
◇
——どうして?
ラナは夢中で駆け出した。
ソフィアとノアがどんな関係なのか、一秒だって曖昧なままなんて耐えられそうになかった。
激しく脈打つ鼓動を抱えたまま階段を駆け下り、玄関の大扉を思い切り押し開ける。
表に出ると、ちょうどソフィアが本館に入ろうとしていたところだった。
「姉さん……!」
溢れ出す衝動のままに、ラナはソフィアに呼びかけた。




