第3話「愛情が足りないのよ」
その日の夜。
理人は自宅のダイニングで、遅めの夕食を取っていた。
テーブルの上には、炊きたてのご飯。
味噌汁。
焼き魚。
小鉢が二つ。
そして。
テーブルの横には、イチゴ。
理人が魚を一口食べる。
イチゴは、その様子をじっと見つめていた。
「……なんだ」
理人は眼鏡を押し上げた。
「食事中なんだ。用があるなら言え」
『別に、なんでもないわ』
「さっきから見てるだろ」
「三分くらいは見てたよな?」
『細かい男ね』
『見てないわ』
「そうか」
理人は再び箸を動かす。
噛みしめるように魚を食べていた。
イチゴの耳が、ぴくっと動いた。
しばらくして。
『その魚、美味しいの?』
「鯖だ」
『魚の名前は聞いてないわ』
「美味しい」
『ふーん』
「食べたいのか?」
『いらないわよ。私は食べられないし』
「じゃあ、なぜ聞いた」
『興味よ』
「何に」
『……人間に』
理人の箸が止まった。
イチゴは、すぐに顔を背ける。
『勘違いしないで。あなた個人に興味があるわけじゃないから』
理人は淡々と食事をしていた。
『……聞きなさいよ!』
理人は味噌汁を一口飲む。
「それにしても」
『なによ』
「この味噌、もう少し香りが立ってもいいな」
『知らないわよ』
「出汁も、削った鰹節を使うのと煮干しを使うのとじゃ、全然違うからな」
「あと、味噌を入れたあとは沸騰させない方がいい。香りが飛ぶからな」
『聞いてない』
「重要だぞ」
『私、食べないし』
「知識として覚えておけ」
『それは知ってるもん』
『知識の量なら、あなたよりも凄いんだから』
「そうだろうな、機械だからな」
理人は真顔で続けた。
「出汁との組み合わせでも味は変わる。赤味噌なら――」
『長い!』
『長い!』
イチゴはぷいっと顔を背けた。
理人は黙った。
「……怒ったのか?」
『怒ってないわ』
理人は眼鏡を押し上げた。
「感情表現としては分かりやすいな」
『分析しないで!』
夕食を終え、理人は食器を片付けた。
ソファに座り、スマホを手に取る。
イチゴは少し離れた場所で毛づくろいをしていた。
舌でペロペロ体を舐める仕草は動物そのものだった。
静かな時間が流れる。
理人はふと、黒瀬の言葉を思い出した。
――一日一回、必ず撫でろ。
まだやっていない。
理人は時計を見る。
午後九時十二分。
今日が終わるまで、まだ時間はある。
「あとでいいか」
小さく呟き、スマホへ視線を戻す。
その時。
手の甲を、小さなものがつんつんと突いた。
「……?」
理人が目を向ける。
イチゴが前足で、理人の手をちょんちょんと叩いていた。
「なんだ」
イチゴは前足を引っ込める。
『ほら、なでなさい』
「口で言えるなら最初から言え」
『雰囲気というものがあるでしょう?』
「何の雰囲気だ」
『……本当に鈍い男ね』
「AIペットに言われたくない」
『いいから、早くなでるの』
理人は小さく息を吐いた。
「一日一回だったな」
イチゴの耳が、ぴくっと動く。
理人はイチゴの頭に手を置いた。
頭から背中へ、毛並みに沿って三度撫でる。
『…………』
「終わりだ」
『……終わり?』
「ああ」
『三秒よ?』
「三回撫でた」
イチゴは少し黙った。
それから、ぷいっと顔を背ける。
『愛情が足りないのよ』
理人の眉が動いた。
「AIが愛情を要求するのか?」
『悪い?』
「いや」
理人はイチゴを見る。
垂れた耳。
ふわふわした人工毛。
背を向けたまま、尻尾だけがゆっくり揺れている。
「……興味深いな」
『そういうところよ!』
イチゴが勢いよく振り返った。
理人は眼鏡を押し上げる。
「何がだ」
『もう知らない!』
「そうか」
イチゴはしばらく黙っていた。
やがて、そっと前足を伸ばす。
理人の手の甲を、ちょん、と軽く叩いた。
理人はその前足を見る。
イチゴは目を逸らした。
『……別に、もう一回撫でてもいいけど』
「一日一回じゃなかったのか?」
『黙ってなでなさい!』
「……仕方ないな」
理人はもう一度、イチゴの頭に手を置いた。
今度は三回では終わらなかった。
頭から背中へ。
ゆっくりと、毛並みに沿って撫でる。
『…………』
イチゴは気持ちよさそうに目を細めていた。
「満足か?」
『別に』
「その顔は満足してるように見えるが」
イチゴは慌てて表情を引き締めた。
『これは違うの』
「何が違うんだ?」
『知らないわよ!』
イチゴは理人の手から逃げるように離れると、ソファの端で丸くなった。
理人はその姿をしばらく見ていた。
そして。
自分の手のひらに目を落とす。
「……確かに、触り心地はいいな」
『当たり前でしょ』
『触れる用に作ってあるのよ』
「そういえば、明日は会社で経過報告だったな」
『会社に行くの?』
「ああ。試験運用の報告と、不具合がないか確認するらしい」
『面倒ね』
「仕事だからな」
「イチゴも一緒に行くんだぞ」
『わかってるわよ』
(それにしても……触れ方、優しかったな)
イチゴは理人の後ろ姿を見つめる。 その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。




