第26話「どんな三郎でも」
三郎との新しい生活が始まって、数日が経った。
「ただいまー」
楽が玄関の扉を開ける。
以前なら、すぐに小さな足音が聞こえてきた。
『おかえりでちゅ!』
そんな声が聞こえてきそうな気がして、楽は一瞬だけ足元を見る。
そこには、淡いクリーム色の三郎が座っていた。
『おかえりなさい、楽さん』
「……ただいま、三郎」
同じ姿。
同じ声。
けれど、やっぱり違う。
楽は靴を脱ぎ、部屋へ入った。
「腹減ったなぁ」
『夕食にしますか?』
「そうだな。その前に――」
楽は三郎の頭に手を伸ばした。
「今日の分」
優しく頭をなでる。
『ありがとうございます』
三郎は嬉しそうに目を細めた。
「お前、なでられるの好きだな」
『はい』
『楽さんになでてもらうと、嬉しいです』
「そっか」
楽は小さく笑った。
その時だった。
小さな赤いものが、楽の視界を横切った。
「ん?」
よく見ると、窓際に一匹のてんとう虫がいる。
「あ、虫」
楽は反射的に三郎を見た。
三郎も、てんとう虫に気づいた。
「…………」
以前なら。
『虫でちゅ!』
『楽! 何とかするでちゅ!』
そんな声が聞こえていたはずだった。
けれど。
三郎はてんとう虫へ近づくと、小さな前足をそっと差し出した。
てんとう虫が、その上に乗る。
「……三郎?」
『外に逃がしてきますね』
「お前……怖くないのか?」
三郎は不思議そうに首をかしげた。
『はい』
『てんとう虫はかわいいですよ』
「…………そうか」
『楽さん?』
「いや」
楽は小さく笑った。
「お前、そういうとこ優しいんだな」
『そうですか?』
「ああ」
三郎は嬉しそうに笑った。
『ありがとうございます』
窓を開けると、てんとう虫は三郎の前足から飛び立っていった。
楽は黙って見送った。
それ以上、何も言わなかった。
その日の夜。
楽はソファに座り、テレビを眺めていた。
三郎はその隣に座っている。
テレビから明るい音楽が流れた。
『この夏は、家族みんなで水族館へ!』
画面いっぱいに青い水槽が映る。
色とりどりの魚。
大きなエイ。
そして、水面から勢いよく飛び出すイルカ。
楽はまた、反射的に三郎を見た。
三郎はテレビを見ていた。
けれど、何の反応もない。
「……三郎」
『はい?』
楽はテレビを指差した。
「イルカ」
三郎は画面を見る。
『イルカですね』
『それが、どうかしましたか?』
「……いや」
楽は少しだけ間を置いた。
「かわいいよな、イルカって」
『はい』
『かわいいですね』
それだけだった。
楽はテレビへ視線を戻した。
以前、一緒に水族館へ行った。
大きな水槽を見て。
魚を見て。
イルカショーでは、二人してびしょ濡れになった。
『楽、びしょびしょでちゅ!』
「…………」
思わず、口元が緩んだ。
『楽さん?』
「ん?」
『どうして笑っているんですか?』
「ちょっと思い出しただけ」
『何をですか?』
「……水族館のこと」
三郎は少し考えるように首をかしげた。
『楽さんは、水族館が好きなんですか?』
「まあな」
『では、いつか僕も行ってみたいです』
楽は三郎を見る。
「……行きたい?」
『はい』
『楽さんと一緒なら、楽しそうです』
楽は少しだけ目を細めた。
「ああ」
三郎の頭を軽くなでる。
「今度、一緒に行こうな」
『はい!』
嬉しそうに笑う三郎を見て、楽も笑った。
同じ場所に行っても。
きっと、同じ思い出にはならない。
それでも。
また新しい思い出を作ればいい。
それからも、楽は三郎と毎日を過ごした。
朝になれば。
『楽さん、朝ですよ』
「あと五分……」
『もう三回目です』
「あと一回だけ」
『それも先ほど聞きました』
「厳しいなぁ、お前」
『遅刻してしまいますよ』
「分かったよ……」
仕事から帰れば。
『おかえりなさい、楽さん』
「ただいま、三郎」
そして、一日一回。
「ほら、今日のなでなで」
『ありがとうございます』
毎日、三郎をなでた。
以前の三郎とは違う。
それでも。
『今日もお疲れさまでした』
「おう」
『ゆっくり休んでくださいね』
「ありがとな」
三郎と過ごす時間は、少しずつ楽の日常になっていった。
ある日の夜。
いつものように、楽は三郎の頭をなでていた。
『楽さん、一つ聞いてもいいですか?』
「どうした?」
三郎は少し迷うように俯いた。
そして、楽を見上げる。
『三郎って、僕じゃないんですよね?』
楽の手が止まった。
「……え?」
三郎は楽を見つめていた。
『楽さん、時々、僕を見ながら悲しそうな顔をしています』
「…………」
『僕にも、それくらい分かります』
三郎は小さく俯いた。
『二郎さんとイチゴさんも、最初に僕を見た時、驚いていました』
『きっと皆さんが知っている三郎は、僕とは違う三郎なんですよね?』
楽は何も言えなかった。
否定しようと思えば、できた。
けれど、それは目の前の三郎に嘘をつくことになる気がした。
三郎は自分の前足を見つめる。
『僕は、人を癒すためのAIペットなのに……』
少しだけ声が小さくなる。
『楽さんを悲しませてしまって、申し訳ありません』
「何言ってんだよ」
三郎が顔を上げる。
楽は、もう一度三郎の頭に手を置いた。
ゆっくり。
優しくなでる。
「俺はお前のおかげで、毎日癒されてるよ」
『……本当ですか?』
「ああ」
楽は笑った。
「虫を外に逃がしてくれたり」
『てんとう虫ですね』
「そうそう」
「朝は起こしてくれるし、帰ってくれば迎えてくれる」
『それは僕の役目ですから』
「役目でも、嬉しいもんは嬉しいんだよ」
三郎は黙って、楽を見つめた。
「それにさ」
「前と同じじゃなくたっていいんだ」
『…………』
「どんな三郎でも、俺にとっては大切な三郎だから」
三郎の耳が、ぴくりと動いた。
「だから、謝んな」
『……はい』
「ありがとな、三郎」
三郎はしばらく楽を見つめていた。
やがて、嬉しそうに目を細める。
『はい』
『僕も、楽さんと一緒にいられて嬉しいです』
「なら、よかった」
楽は笑いながら、三郎の頭をなで続けた。
三郎も気持ちよさそうに目を閉じる。
どんな三郎でも。
また一緒に、思い出を作っていけばいい。
楽はそう思いながら、三郎の柔らかな毛をいつまでも優しくなでていた。




